駿府城
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東御門高麗門(05年7月)

その他の写真

JR静岡駅から歩いても直ぐ、県庁裏に駿府城址がある。県庁も三の丸跡にあり、二の丸が公園になっている。公園の真ん中には家康の銅像が建ち、目の前にお手植えのみかんの木が残る。残念なことに、明治期に歩兵34連隊がおかれ、天守台が消滅した。近年、発掘整備公開されている本丸石垣や復元された巽櫓と東御門群がある。県の政治中心地において、二の丸堀がほぼ全部、三の丸堀が半分以上も残存しているのは、せめてもの救いである。他に三の丸跡には駿府城代屋敷跡が公園になっている。東御門と巽櫓は内部も見学でき、たくさんの城郭模型もあり、一見の価値はある。受付の人もボランテアで案内してくれる人も親切で、静岡市民の温かみが感じられる。記念にいただいた竹製の団扇に歴史を感じる。県庁の建物も、新旧の交代が凄まじい。楽しみに行った展望エリアを持つ新建屋は、お休み中。城址公園どこからでも、このビルは顔を出す。ちょっと目障りか。

駿 (現地説明板より)

今から約六五○年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永録三年(一五六○)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永録十一年(一五六八)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(一五八二)に追放した後、同十三年(一五八五)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正十八年(一五九○)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長八年(一六○五)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(一六○七)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。             静岡市教育委員会

駿 (現地案内板より)

駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二ノ丸・三ノ丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが寛永十二(一六三五)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてそ姿を見せるのは、天正十三(一五八五)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長十二(一六○七)年将軍を退き、駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府城は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。       平成八年三月 静岡市

駿府城大手御門(現地説明板より)

駿府城内へ入る正面出入口です。三ノ丸堀を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。  歩道には、渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。(静岡市教育委員会)

巽 櫓(パンフより)

 巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」のありました。  櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。  焼失後、寛永15年に再建された巽櫓は幕末近くの安政大地震によって全壊してしまったと考えられています。全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中では最も高く、“勝れた”櫓であったと言われています。

 

東 御 門(パンフより)

東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多門櫓で構成される枡形門です。枡形門は要所に石落し、鉄砲挟間、矢狭間等をもつ堅固な守りの実戦的な門で、戦国時代の面影を残しています。  東御門の前が安藤帯刀の屋敷であったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行であった松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。  慶長年間に築かれた東御門は寛永12年(1635)に天守閣、本丸御殿、巽櫓などと共に焼失し、寛永15年に再建されました。  今回の復元建物は、この寛永年間再建時の東御門・巽櫓の姿を目指し、日本の伝統的な木造工法によって復元したものです。