田原本陣屋
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陣屋跡地に建つ田原本役場(05年6月)

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田原本は藩主平野家の陣屋があった。今、その跡には役場がある。面影を求めるなら近くを流れる寺川が、かろうじて陣屋地形を想像できる。外堀の役目をになっていたであろう川である。古い町並みの中に、縦横にはしる街路が城下町の雰囲気を感じさせ、堀の残骸として水路が所々に残る。陣屋の遺構は見るべき物もないが、平野家菩提寺本誓寺に、平野家霊廟がある。浄照寺の門は伏見桃山城の移築門。高麗門のせいか、豪快な感じがない。町の中を歩いていると、小さな城下町にしては、栄えた昔を偲ばせてくれる建屋が多い。平野家は賤ケ岳七本槍の一人で、維新時に交代寄合旗本5千石から1万1石に修正申告し、諸侯に列す。近鉄橿原線田原本駅おりて北東へ直ぐ。

 

田原本本陣跡(現地説明板より)

平野藩五千石の陣屋跡である。文禄四年(西暦1595年)平野権平長泰が豊臣秀吉より賤ヶ岳七本槍の軍功として田原本村を含めた大和十市郡内七ヶ村を拝領し、大名並みに遇せられ、以来十代二百八十年間政治をしいた。寛永五年(西暦1628年)二代長勝が入封後、それまで寺内町を支配した教行寺を退去させて、新たに本願寺派の円城寺(現浄照寺)を建立し、町の東、寺川沿いに陣屋を構築して城下町を形成した。早くから大和川、寺川を利用した水運がひらけ、船による大阪との交流物資の集散地として問屋が発達し、「大和の大阪」とも云われた。

 

浄土真宗本願寺派 松慶山 淨照寺(現地説明板より)

賤ヶ岳の七本槍として功名を馳せた平野権平長泰は、田原本他六カ村の地頭となったが、終生江戸詰めであったので、富田の真宗寺院教行寺に寺内町の経営を委嘱。 しかし後日、田原本に陣屋を構築した二代目長勝と、教行寺の間に軋轢を生じ、教行寺は箸尾に立ち退いた。 長勝、その跡地を二分して一宇を建立し、西本願寺の第十三世良如門主に寄進。当初円成寺と称し、寛延二年(1749)淨照寺と改称。西本願寺別院・田原本御坊として、県下に72カ寺の末寺や配下を持ち、門跡寺院として五本筋壁の土塀が許された。 本堂は、慶安四年(1651)の創建。古風な面取り角柱・小屋組など当初材を多く残し、内外陣境の組物・蛙股、向拝の木鼻・虹梁等美術的に優れ、江戸初期の特徴をよく表しており、真宗大規模寺院の典型として、奈良県の有形文化財に指定された。 寺宝の親鸞聖人絵像及び梵鐘は、大谷本廟より拝領。本堂正面の表門は、伏見城の高麗門を移築。 明治十年に明治天皇の行幸、明治二十三年に昭憲皇后の行啓を仰ぎ、当時ご使用の書院現存。

 

慈航山 本覚院 本誓寺(現地説明板より)

当院の草創は鎌倉時代で、正和5年(1316)花園天皇の勅願所として、本覚院と号し、もと八幡町にあった。賤ヶ岳七本槍で武名を馳せた平野権平長泰公は五千石をもって当地を領し、教行寺退去の跡へ正保4年(1647)二代長勝公が今の位置に移して菩提寺とした。弘化2年(1845)知思院宮尊超法親王、有栖川宮有縁の当院に本覚院の御染筆の額を賜り、その由緒をもって慶応3年(1867)門跡格の五本筋壁を許され十ヶ寺の末寺を支配した。境内に、二代・九代領主の霊廟をはじめ由緒品がある。寺宝には本尊阿弥陀三尊像、長谷寺観音像御衣木で作る十一面観音、三十三観音などがある。

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