福井城
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満々と水を湛える堀と廊下橋(05年3月)

その他の写真

福井市内、県庁のある所が城址。堀と石垣が残る。天守台もきれいに保存されている。想像していたより大きい天守台である。天守台が二つあり、一つは控えの天守台とか。何故二つの天守台が必要だったのか。かつては四重五階の天守閣があった。建物が無い現在の石垣を見ると、複合天守閣が建つ、天守台のように見える。控天守台脇には、福井の名前の由来になった井戸が残る。周りもきれいに整備されており、見学者もちらほら。県庁の諸建物が、現代の福井城として、本丸郭内に林立する。この城址ほど、過去から現在まで行政所として、利用されている所は無いのではなかろうか。これからどう両立していくのだろうか、楽しみである。

福井城本丸(現地説明板より)

福井城は、徳川家康の次男、結城秀康によって慶長6年(1601)から約6年の年月をかけ築城された平城である。環郭式の構成を取る大規模なものであって、一説には家康みずからの縄張りとも伝えられている。足羽川、荒川を天然の外堀とし、南を正面とする本丸を中心に山里丸、二の丸、三の丸が配され、北陸の要として威容を誇った。寛文9年(1669)の大火で、天守を始め大半の建物を焼失した。直ちに復興が図られたが、以後天守は再建されていない。 現在は本丸の石垣の一部を残すにすぎない。しかし、旧藩主松平家に伝わった資料等によってその概要をつぎのとおり知ることができる。 天守は、総高約28m、一層目の広さは、梁行10間(約19.7m)桁行12間(約23.6m)の規模を持ち、二重のやぐらの上に二重の望楼を乗せた形式を持つ外見四重、内部5階の建物であった。また、本丸内には多くの殿舎から成る本丸御殿が存在した。この御殿の構成は、時代により若干の変遷が、みられる。しかし、南面中央の大手口に面して玄関を置き、この西に大広間・御書院の表向施設を、東に台所等を、西後方に藩主の御座所、そして東後方に奥居間・長局・寝所等の奥向施設を配する構成は、ほぼ一貫している。

山里口門(埋御門)

ここには、西の山里丸や藩主の御座所が置かれた時も多かった二の丸に通じる山里口門が存在した。 天守台下にあって、南の石垣との間に渡りやぐらのような形であったので、埋門とも呼ばれた。方向の異なる二つの門によって、升形を形成する定法通りの造りの跡が、石垣に明瞭に残っている。 なお、地中の礎石の跡は新たに笏谷石で表示している。

福井城天守(現地説明板より)

福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長六年(一六○一)から約六年をかけて福井城(北庄城)を築城し、本丸には壮大な天守が威容を誇っていた。 残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、最上層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が五階になっている。絵図では高さが、約二八メートルあり、天守台を含めると約三七メートルにもなる。 今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、天守台の北半分に天守が建っていたのであろう。 四層五階の壮大な天守も、寛文九年(一六六九)四月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。

控天守台説明

この控天守台跡の石垣には福井震災(一九四八年六月)等による崩壊の跡が残っています。厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます。

城構の概略(越前若狭の遺跡「大正10年福井県内務部発行」より)

福井御城之覚に拠れば御本丸御廻り間數五町二十八間濠幅東二十五間南二十一間西二十七間北二十三間にして西北に天守台あり東南角の巽櫓及び西南角の坤櫓は三重にして東北角の艮櫓は二重なり。瓦御門本城橋南面にあり西に廊下橋及び廊下橋御門あり。北枡形北不明御門あり。本丸建物間數八十二、御座所間數百一を數ふ二ノ丸の廻り間數十三町三十一間濠幅東十二間北十三間西十三間櫓數四、門數九ケ所内埋門一個所あり。三ノ丸廻り間數十九町九間半濠幅東十六間南四十一間西十五間北十五間櫓數三個門數十一個所あり其他外曲輪に門二十個所あり。二ノ丸三ノ丸に於ける櫓は総て七個即ち七ッ蔵御櫓。同所櫓。城代屋敷御櫓。元作事櫓。御花畑角櫓。乾櫓。角櫓にて総て二重なり門は本丸に属するものを除き山里口門。山里奥門。七人番所門。切手門。御厩脇食違門。太鼓門。御座脇不明門七ッ蔵之内埋門下馬門。鐵門。漆門。埋門(酒井外記稲垣伊右衛門堺)。川口門(舟山口門)。御馬出門。小馬出門。二丁掛門(神明脇門)。清水門。元玉蔵門。御泉水御門(舎人門)。不動脇門(作馬門)。加賀口門(新田門)。地蔵町門。井上半太夫前御門。御鷹部屋門。三ノ丸太鼓櫓門。今村段右衛門前門。櫻木門。小櫻門。堂形門。春秋門。酒井平馬前門。勝見門(手寄)。柳門。櫻門。照手堂門(大橋北詰)。小石原門(大橋南詰)。以上現今の片町を西の堺とし東は新堀川たる今の荒川に及び南は足羽川に面し北は加賀口馬出に達する略方形の區域にして西面に商估軒を併べ橋南と相待つて城下町を形成し漸次北部に開展せり。此等の門櫓今存するもの無し。