仙台城
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大手門隅櫓前の石碑(2015年3月)

その他の写真

 仙台城へは二度目だが、十数年を隔てている。本丸石垣や大手門土塀が震災後に復旧されて、きれいになっていた。本丸への車道も真新しく舗装され、新設された城のようである。飛行機の時間に追われての登城で、駆け足の探索となり、心引かれる思いだけが残った。移転した東北大学側から入り、埋門側に駐車。折からの国際震災会議の最中でたくさんの外国人も。先ずは伊達政宗の銅像へ。立派、立派、台座の大きな銅像だ。下から見上げた分には、片目なのか両目なのか判断出来ないが、眼下の仙台市内を見下ろしている。本丸御殿は発掘中で、礎石がたくさん見られる。市内を一望した後、詰門跡から下へ。普通は下から上に向かうのが順当だろうが、今回は逆。本丸石垣の壮大な大きさに圧倒されながら、沢門跡、中門跡とたどり、大手門跡へ。大手門隅櫓が懐かしい姿を見せる。裏側から見たせいか、威圧感よりも、かわいらしさを感じる櫓だ。道を挟んで土塀が。ただ一つ残った遺構だが、今度の震災で崩れ、復旧されたばかり。少し行き過ぎて、あらためて後ろを振り返ると、堂々とした隅櫓と土塀である。ここに大手門が残っていたらその威圧感はすごいものだろう。政宗が目指した仙台城はどうなのだろうか。すでに戦国時代も終わり、平和が見えてきた時代、堅固な山城を築く必要が、どこにあったのだろうか。まったく仙台城は堅固な山城である。天守閣を作ろうが作るまいが、幕府の疑念を想起させるには、十分な堅固な山城である。駐車場へ戻る道すがら、荒い息をしながらそんなことを考えた。

    銅像下の説明銘板

 仙台藩祖伊達政宗卿騎馬の銅像が森の都仙台の青葉山につくられたのは昭和十年のことである ときの宮城県青年団が郷土の彫刻家小室達氏に託して制作した 十九年一月太平洋戦争による金属徴用でその姿を消したが二十八年十月新たに卿の平服姿をかたどった白色セメント立像小野田セメント株式会社が制作して市に贈った たまたま騎馬像の原型が柴田町に保存されていることがわかり 銅像再建を望む声が高まったので 三十七年十月本協会法人改組の記念事業として復元を企てたところ 幸いに宮城県 仙台市 柴田町の支援と県内外の熱心な協賛を得て事業もはかどり ここに卿の雄姿を復興することができた  経済の開発と文化の発展につくした英雄の風格は郷土繁栄の象徴として その遺徳とともに永遠にたたえられるであろう

   昭和三十九年十月一日   社団法人 仙台市観光協会 会長 島野 武

 

中門跡

 中門は、大手門から本丸に至る道の途中に設けられていた二階門で、寅門とも称された。江戸時代に作られた姿絵図には入母屋造で、桁行は6間、梁間3間に描かれている。大正9年(1920)に老朽化のため解体された。解体の際に作成された平面図には、一階正面の桁行46尺4寸余(約14.1m)、側面の梁間が18尺(約5.5m)であったことがわかる。門をはさんで両側には石垣が築かれている。平成15年(2003)5月の地震で南側の石垣の一部が崩れ、解体工事が行われた際、多数の金箔瓦が出土している。(現地説明板より)

詰門跡

仙台城本丸は、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山(御裏林)、南側を竜ノ口峡谷が囲むという天険の要害となっている。この北側には石垣が築かれ、登城口が設けられていた。詰門はこの入口に建てられた門で、正保の城絵図(「奥州仙台城絵図」(1645年))によると二階建て?瓦葺で、棟の両端に鯱がのっていた。左右の石垣間の距離は約19.5m(65尺)で、大手門と同じ幅を持つ。門の左右(東西)には三重の脇櫓(東脇櫓?西脇櫓)が築かれていた。(現地説明板より)

 

仙台城本丸覚え書(宮城の郷土史話より)

 政宗公が仙台へ移る前の居城は岩出山城であったが、関ヶ原の戦いが終わった頃は長町の東、広瀬川右岸に近い北目城にいた。慶長五年十二月二十四日、青葉ケ崎に築城することになり、政宗視察。翌六年正月十一日に着工した。東西百三十五間、南北百四十七間、様式は聚楽第式であった。最初から天守を置かず、周囲に三重櫓を建て、大広間と称する桃山式大書院を主要部とする。天守台予定地は現護国神社南にある、三角点が立っている標高百三十二mの高台。戦災で焼失した二の丸大手門を入って左に折れ、つきあたって又左に折れる所に左右に城壁が残っている。大正の初め頃までは二階建ての櫓門があった。これを寅ノ門と称したが一名を中ノ門といったのはここが二ノ丸と本丸の仕切りであったからである。ここから本丸入り口まで昔は両側えんえんたる白壁の土塀がつらなっていた。追廻へ下るところまでを中曲輪と称し、下り口に一階建ての沢門があった。本丸入り口は、左右石垣の上に斜めに向かい合って西脇櫓、東脇櫓の二つの三重櫓が屹立し、正面に石段の上に、大手門と同じ規模の詰ノ門があって、左右の櫓との間は銃眼、矢狭間のついた白壁の多門と称する長い建物でつながれていた。仙台城本丸は長久保赤水が「青葉山は壁崖削ルガ如ク一夫隘ヲ守レバ万夫モ当リ難シ。実ニ金城鉄郭海内無双マリ」と書いた通り典型的な山城であるが、八木山橋まで行って竜ノ口を見なければ仙台城の要害としての価値を語る資格はない。寛永十三年政宗公は遺命として二代忠宗に造営させたのが二ノ丸である。以後本丸には藩主が住まなくなり留守居役だけを置いた。建物は明治五年に県で破却した。