船岡山城
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写真の建勲神社拝殿や境内もほぼ城址(2015年2月)

その他の写真

応仁の乱で、ここに西軍山名氏が本陣を置いた理由が良くわかる。眼下に京都市内が一望出来、小高い丘は絶好の山城。ここ神社境内など、平坦になった場所があり、それぞれ郭を構えていたものだろう。駆け足で探索したので、境内地を除き、ほとんど未踏査。

船岡山(全山史跡、風致地区)

 船岡山は標高四十五米、周囲千三百米、面積二万五千坪の優美な小山であり、その東南側は建勲神社境内で特にうっそうとした森に被われている。豊臣秀吉の頃より信長公の霊地として自然がそのまま残され、京都盆地特有の樹相が良く保たれている。樹種が極めて多く、帰化植物がほとんど入りこんでいない京都市内で数少ない貴重な森とされている。船岡山は聖徳太子の文献にもその名が出ており、又、京都に都が定められた時、北の基点となり、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となった。平安朝の昔には清少納言が枕草子で「丘は船岡・・・

 船岡の若菜つみつつ君がため 子の日の松の千代をおくらむ(清原元輔)

戦国時代の応仁の大乱の際、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。(境内説明板より)

 

建勲神社(通称けんくんじんじゃ)

  御祭神  織田信長公

 織田信長公は戦国の世を統一して民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、西洋を動かす力の源を追求して新秩序を確立し、日本の歴史を中世の混乱から近代の黎明へと導かれた。その為、信長公は行き詰った旧来の政治、社会秩序、腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民全体の日本を追求された。 明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格官幣社に列せられ、ここ船岡山に大生の神として奉斎されている。(境内説明板より)