一乗谷城
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中心地に建つ朝倉館跡唐門(05年3月)

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北陸自動車道を福井インターで下りて国道158号線を東へ。入口には県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館がある。事前に立ち寄り、情報を頭に入れるのに好都合。時間が許せば、ここの駐車場に車を止めて、ゆっくりと遊歩道を歩くのがいい。足羽川に合流する一乗谷川沿いに一乗谷城址が広がる。東の山上には詰の城として一乗谷山城がある。麓には日常生活の場となる町屋が広がり、一部復元された建物が建つ。上、下城戸の中間に朝倉氏館跡があり、唐門が良い雰囲気をだしている。圧巻は、下城戸口にある石垣の巨石である。当時の朝倉氏の勢いが感じられる。上城戸山裾の遊歩道に、古い五輪塔の天石がころがっていた。雪解けで、山腹から転げ落ちたものだろう。ここ一乗谷は遺跡の宝庫である。私が訪ねた2005年3月には、まだまだ豪雨の爪跡が残り、復旧作業中。ボランテアの方もたくさん働いており、復元建屋の畳、床板も一部無い。入場料も無料だった。一日も早い復旧を願うのみ。

一乗谷朝倉氏遺跡(現地説明板より)

一乗谷は、文明3年(1471)から天正元年(1573)までの103年間、戦国大名朝倉氏が領国支配の拠点とした所です。  周囲の山には地形をたくみに利用して山城や櫓等を配置し、谷の入り口とその1.7km上流部の谷幅が最も狭まった所に上下二つの城戸を設けて防御を固めています。1967年にはこの二つの城戸で区画された「城戸ノ内」と呼ばれる町の中核部を中心に278haという広大な地域が特別史跡として指定され、遺跡の調査研究と保存活用を計る諸事業が進められています。  これまでの調査によって谷内には城主の館や一族の居館・家臣団屋敷・寺院そして商人や職人が住んでいた町屋が、道路に沿って計画的に配置されていたことが明らかになりました。良好に残されている屋敷や建物・道路などの遺構と陶磁器を主とする多くの出土遺物から戦国時代の町やそこに暮した人々の様子を具体的に知ることが出来ます。  なお、優れた庭園遺構も残されており、これらは併せて特別名勝にも指定されています。

朝倉氏遺跡(福井県立資料館パンフより)

朝倉氏遺跡は、福井市街の東南約十kmに位置する戦国時代の城下町の跡で、四○○年以上もそっくり埋もれて残されてきたことで有名です。昭和四六年に二七八haが国の特別史跡に指定され、史跡公園として発掘・整備が進められています。また、平成三年には遺跡内の四庭園が国の特別名勝に指定されました。城下町は、東の一乗谷城(詰城)、西の東郷槙山城、北の成願寺城、南の三峰城で厳重に守られています。一乗谷川に沿った狭い平地部では、朝倉氏の館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人達の町屋が道の両側に所狭しと建てられていたことが発掘で明らかとなっています。復元武家屋敷を見学し、朝倉館、湯殿跡庭園、中ノ御殿、諏訪館跡庭園に至る約一時間コースが一般的でしょう。時間に余裕があれば寺院と町屋群、上城戸、下城戸、西山光照寺の石仏群、標高四七三mを測る一乗谷城などの見学もおすすめします。

特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡(唐門脇の説明板より)

一乗谷朝倉氏遺跡の中心はここ朝倉氏館跡である。 この遺跡は東の台地に寺院を建て、庭園を築き北と南に上下の城戸を固め、平地には武家屋敷を谷間には下級武士の住居を配し、また東西の峯々に見張櫓を設け東の山頂には城を構えた広大なもので中世豪族の城館の模様を今日までよく残している。

福井市

大規模武家屋敷群(現地説明板より)

この地区は、「一乗谷古絵図」に、朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、これを裏付けるように、発掘調査では、計画的に造られた道路と、これに沿って整然と配置された多くの大規模な屋敷跡が検出されました。 屋敷は、戦国時代の城下町を象徴するように鍵型に折れ曲がり部を持つ南北方向の道路の両側にありますが、西の山裾側の屋敷の方が、東の川側の屋敷に比べて数倍大きくなっています。これらの屋敷の敷地間口の多くが、約30mもしくはこの1.5倍や2倍となっていることから、約30m(100尺)を基本単位として計画されていたと考えられています。 各屋敷は、幅1.2〜1.8mの石垣を持つ小土塁で区画されています。これは現在復元されているように、基本的には土塀の基礎部と考えられています。また、この道路面した小土塁に門を設けています。その門の間口は3m(10尺)です。この門は、西の山裾の屋敷では、礎石4個を用いた四本柱の薬医門形式を用い、東の川側の屋敷では掘立柱2本からなる棟門形式を用いており、格式の差が見られます。 屋敷の中の建物については、削り取られている部分も多く、はっきりしない点も有りますが、基本的には、正面南寄りに接客や主人の住まいとなると考えられる比較的整った規模の大きな建物跡が、奥の山裾近くでは、蔵や台所・家人の住まいなどと推定される建物跡が検出される傾向が認められます。

復元武家屋敷(現地説明板より)

この屋敷は約30m四方の基準的な広さを持ち、周囲に土塀を巡らし、西の道路に向って表門を開いている。屋敷内の南半に6間X4間の主殿を配し、これに接して東南隅に座敷と庭を設けている。北半には蔵や使用人が居住したと考えられる納屋や井戸等が配されている。これらの建物は、発掘調査の結果に基き、絵画等の資料を参考にして推定復元を行った。屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、舞良戸・明障子等の引戸が多く用いられている。木材の加工には、かんな・やりかんな・ちょうな等当時の道具を用いている。全体にかなり進んだ建築様式の住宅であったことが知られ、一乗谷の文化水準の高さが伺われ、興味深い。

 

下城戸(現地説明板より)

朝倉氏は一乗谷の谷合が最もせばまるところ二ヶ所に土塁を築き城戸を設けた。北側下流の城戸を下城戸と呼び、両城戸間は約1.8kある。土塁は全長50m、幅18m、高さ5mの規模を推定され、西側には巨石による桝形構造の城戸がよく残っている。また土塁の北側には幅10mほどの外濠がある。

上城戸(現地説明板より)

朝倉氏は一乗谷*〜*せばまるところに*〜*城戸を設けた。*〜*を上城戸と呼んでいる*〜*長100m・幅10m・高さ12mの*なもので土塁の前面*〜*の外濠が堀*〜*続いていた*〜*世削平*〜*められたと*〜*(*は風化が激しく判読困難)

朝倉義景館(現地説明板より)

この館は山城を背にして西を向き3方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓を構えている。内部には10数棟の建物群がみられ、これらは大きく2つに分けられる。1つは主殿を中心として南半に位置するもので、接客の機能を持ち、会所や数寄屋・庭園等もみられる。もう1つは常御殿を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や寺仏堂・湯殿等もみられる。この他、厩等も存在した。建物はすべて礎石の上に角柱を立て、舞良戸・明障子といった引戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かった。また屋根は柿板等で葺いていたと考えられている。書院造の成立過程を知る上で欠くことの出来ない貴重な遺構である。

 

特別名勝 一乗谷朝倉氏庭園(現地説明板より)

特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡には、庭池の周囲に豪壮な庭石組を伴った林泉庭園から、数個の立石・伏石と小礫の化粧敷からなる枯淡な枯山水平庭まで数多く遺存する。それらの内で湯殿跡・諏訪館跡・義景館跡・南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991)5月28日、国の特別名勝に指定された。 義景館跡庭園を除いた3庭園は、庭石組などが地上に露出していたこともあり名園として知られるところで、昭和5年(1930)すでに国の名勝に指定されていた。しかしその後の管理が不十分でかなり荒廃していたので、昭和42年庭池の堆積土の除去や周囲の雑木の伐採などが行なわれ整備された。また昭和62年には湯殿跡・諏訪館跡で、庭池に導水するための石組溝や暗渠が発掘された。 山地を背景に凝灰角礫岩の立体的庭石組がなされている。湯殿跡庭園が最も古く、他の3庭園は義景時代の作庭で、庭石組の形式もよく類似する。後世に改変されることなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えている。 義景館跡庭園は完全に埋没していたが、昭和43年の館跡の調査で発掘された。汀の庭石を建物の礎石に兼用するなど、建物と庭園が密接な関係のもとに作られていた。庭池は数寄屋の南の山裾に設けられ、中央に滝石組がある。滝口の前方には水分石Dが、滝石組の左方には橋狭石と石橋の残片Hが遺存する。東側の急斜面には、つづら折に流れ落ちる導水路が作られている。 数寄屋跡の西には緑を介して、庭石を数個配し小砂利を化粧敷した枯山水平庭がある。当庭園には海石の安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が一部に使われ、華麗な桃山庭園様式の芽生えがみられる。

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡(現地説明板より)

一乗谷朝倉氏遺跡の中心にここ朝倉氏館跡である。この遺跡は東の台地に寺院を建て、庭園を築き、北と南に上下の城戸を固め、平地には武家屋敷を谷間には下級武士の住居を配し、また東西の峯々に見張櫓を設け東の山頂には城を構えた広大なもので中世豪族のを今日までよく残している。

福井市