山野辺城
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山野辺城本丸跡(12年11月)

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国道458号線、羽前山辺駅前のショッピングプラザベル前を通り、山辺小学校脇の中央公民館へ。狭い路地を進むと登り坂になり、右側に石垣のあるそれらしい地形が。上にあがると納得の地形。旧城跡は小学校に利用され、その後公民館に。小学校は隣に移転。石碑を探したが、あった石碑は学校関係で、城跡に関するものはない。少し寂しい。(後でわかったが、登り坂の突き当りが右手に石碑と説明板があった。公民館を含めて道を隔てた小学校一帯が城址。小学校南側の一段小高い所が本丸跡。この付近は開発が著しいが、辛うじて道や土地の高低差に城跡を偲ぶことができる。今回は石碑すら探せ出せず、下調べと時間が限られ、惜しまれる探訪に。近くの高楯城跡も未訪問。(南に1キロほど行った天満神社を勘違い、そこを高楯城と思い探索。しかし、説明板には古墳の説明しかなく、城址には一切触れられておらず、不思議に思ったが、後でわかった結果は別の場所。山野辺城から100mも離れていない所に、別の城が存在するとは想像することが出来なかった。)ここの城主が義光の四男「義忠」。最上家御家騒動の蔭の仕掛け人なのかも?伊賀で起きた、荒木又衛門の仇討ちにも関係していたようだ。後に水戸藩主光國に、家老として招かれる。

山野辺城(現地説明板より)

 山野辺城は、平安時代の前九年の役で知られる奥羽地方の戦乱時に須賀川山辺氏が領有築城したという。室町時代になると山野辺氏の活躍が伊達家や各地の記録にみえるし、軍記物語にも最上氏配下の部将として、登場し信頼に応えた大きな働きをしている。 その当時の城郭は、宝暦十一年(1761)の古絵図によると、現在の町役場から山辺小学校プールまでの東西四十間(73m)南北五十六間(102m)の台地に置き、その周囲をめぐる山辺小学校、中央公民館、オリエンタルカーペット株式会社等が位置する東西百十六間(210m)南北百八十間(327m)の丘陵地を副郭とする輪郭式の平山城であったものと思われる。西部の出羽丘陵から村山盆地に向けて突き出た丘陵部の舌端部を利用し絶好の位置に立地した中世の城郭であった。 慶長六年(1601)、一万九千三百石で山野辺城主となった山野辺義忠は領主として約二十二年間の治世の間に数多くの業績を上げ、最上宗家の当主として期待された程の人物であった。特に山野辺城池の完成と城下町の整備に意を注施。 近世の城下町なので平凡な縄張になっているが、随所に工夫が見られる。周囲に三の堀をめぐらして城池を拡張し、西部は山間部から見下ろされるので四の堀を用意し、北西部には出丸を設けて防備を固めている。道路は直線状ではあるが微妙に曲がって見通しを妨げ、各道路間は三叉路の連絡で直進できないようになっている。各街道の出入口には寺院を配し、戦闘場面での防御陣地を想定している。 しかし、元和八年(1622)最上氏の左遷により山野辺城は破壊されてしまった。 文政六年(1823)白河藩阿部氏は出羽国の飛び地を支配するために旧山野辺城二の丸内に陣屋を設けた。その玄関は幾多の変遷を経た後、町文化財として指定、保存されている。 現在、山野辺城の遺構は残るものが僅かになってしまったが大切に保存し永く先人の血と汗の偉業を称えたいものである。

山辺町教育委員会