安土城
[ ホーム ] [ 上へ ]

 

 

大手道(02年11月)            発掘整備前の大手道(1967年11月)

 

百々橋口の城址石碑(02年11月)               二の丸にある信長廟(02年11月)

信長が天下覇権を果すべく築城した城址は、よくぞ残ってくれたものと言うごとく、ほほ完全体で残っている。滋賀県の発掘整備の結果、現代人をびっくりさせる大規模な城であったことが実証された。最初に訪れたのは1967年晩秋の夕暮れ時であった。大手道も狭い石段が天守台まで延々と続き、訪れる人も無い寂しい道を登って行ったことが思い出される。天守台石垣には焼けた後が残り、たくさんの瓦が散在していた。信長廟付近には霊気さえ漂い、早々に山を降りたことが、頭の隅にあった。35年ぶりに訪れた城址は、明るいにぎやかなものに変化していた。古城址と言った雰囲気は薄れたが、築城当時の明るさを取り戻した感じがする。新し物好きの信長が住まいする城に相応しい、豪華さがよみがえったようだ。安土城で見つかる石仏利用が、信長の悪の一つに代表されるが、信長に限ったことではない。日本の戦国乱世の当たり前の姿なのかもしれない。大和郡山城、和歌山城、大坂城、姫路城と、石仏から石棺まで利用している。畿内では、古墳そのものを城として利用したものは数多い。信長を弁護するわけではないが、一面だけから見るのは危険である。ここ、安土城址は、古城としては日本一と言える。故郷、天童陣屋は信長の子孫によって築かれた。あながち、信長も他人とは思えない。JR安土駅からゆっくり歩くのも良し、JR近江八幡駅からタクシーで素早く行くのも良し。

 

特別史跡  安土城跡 (現地説明板より)

  安土城は、織田信長が天正四年(一五七六)に、天下統一の拠点として琵琶湖畔に築きはじ

めた大城郭です。豪壮華麗な天主や本丸御殿を山上にいただき、家臣たちの屋敷が山腹から山

麓にかけて建ち並ぶ安土山の姿は、人々に新しい時代の到来を知らせたことでしょう。

  しかし、天主が完成したわずか三年後の天正十年には、信長の死とともに安土城は焼け落ち

てしまいます。その後四百年余を経て、安土城はうっそうと茂る樹木や厚く堆積した土砂の中

に埋もれ、樹間にかいま見る石垣や石段に、わずかに往時の雄姿をしのぶだけとなってしまい

ました。

  このため滋賀県では、安土城跡の保存と活用を図るため、発掘調査とその成果に基づく史跡

整備事業を平成元年から二十年計画で実施しています。これまで大手道とその両側に建ち並ぶ

伝羽柴邸跡、伝前田邸跡などの屋敷地、城下町と天主を結ぶ百々橋口道と旧ハ見寺跡の調査を

行い、安土城の往時の姿を明らかにしてきました。現在は搦手道や天主周辺の調査を進めてい

るところです。また、発掘調査の終了した大手道や伝羽柴邸跡については、環境整備事業を順

次進めています。見学の方々にはご迷惑をおかけいたしますが、徐々によみがえる安土城跡の

姿を間近に見ていただければ幸いです。

    平成八年十二月   管理団体  滋 賀 県

 

織田信雄公四代供養塔説明板(長谷川邸跡にある)

初代信雄公

徳源院殿実巌常眞大居士

寛永七年四月三十日  七十三才

 

四代信武公

圓明院殿定岩宗恵大居士

永禄七年十月三日  四十才

 

三代長頼公

徳雲院殿回岩宗頂大居士

元禄二年四月三日  七十才

 

二代高長公

瑞泉院殿一岩宗徹大居士

延宝二年八月十八日  八十五才

 

伝羽柴秀吉邸復元図(現地説明板より)      伝前田利家邸石組み図(現地説明板より)

伝羽柴邸跡(現地説明板より)

  ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。   上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366uあり、この屋敷では最大の規模を持っています。   戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。

櫓門跡の発掘調査(現地説明板より)

  伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は平成2年と4年に実施しました。調査前は草木の生い茂った湿潤な斜面地でしたが、大手道に面した調査区からは門の礎石と考えられる大きな石や溝、階段を発見しました。これらは厚さ数pの表土の下から見つかりましたが、その保存状態は大変良好で今後の安土城跡の調査に大きな期待を抱かせることになりました。   礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のものでは0.8mX1.4mの大きさがあります。これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の櫓門であることがわかりました。   櫓門の内側には、屋敷に通じる石垣とこれに伴う石組みの排水路があり、水路の縁石には石仏が使用されていました。門の前では大手道から櫓門へ入るための橋を支えたと考えられる3本の長い花崗岩製の転用石を発見しました。   また、周辺からは櫓門の屋根を飾っていたと考えられる金箔軒平瓦や丸瓦の破片が出土しています。

伝前田利家邸跡(現地説明板より)

  ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。門を入ったこの場所は桝形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字形に多聞櫓が囲んでいます。北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長屋門風の門が開いています。この桝形から先は道が三方に分かれます。   右手の道は最下段の郭に通じています。ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていました。この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書「匠明」に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。   正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上がるものです。正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものでしょう。前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出ます。広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、現在竹薮となっており調査が及んでいません。さらにその東にある奥座敷は特異な平面を持つ書院造建物です。東南部に突出した中門を備えているものの、部屋が一列しかありません。あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半部の部屋を撤去したのかもしれません。   伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その配置には大きな相違が見られます。向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な遺構です。

伝前田利家邸跡の虎口(現地説明板より)

  一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言います。伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。また、一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかります。