宇和島城
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天守閣(72年6月)                    天守閣(06年11月撮影K氏)

国道56号線を、宇和島へと向かう。小高い丘に鎮座する、宇和島城のまわりをぐるりと一回り。入口を見つけて、門の脇にある駐車場に車を入れる。三の丸だろうか。車を降りて、正面石段右手の小屋の中に、牛鬼人形の大きな姿が。石段を登り、右回りに行くと、二の丸に出る。更に石段を登ったところに、見覚えのある白亜三層の天守閣がぽつんと建っている。この一番高い一郭が、本丸。昔の面影を、この天守閣から偲ぶのは、あまりにも遠い年月が過ぎてしまったようだ。丸裸になり、息も絶え絶えにしている姿だ。仙台伊達家の分家としての城下町、こぢんまりとして、良い町である。何となく親しめる町である。(72年6月)

宇和島城の沿革

戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文十五年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。その後、天正三年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。文禄四年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起し、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同六年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。慶長十三年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同十八年(1613)に改易となったので、約一年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。慶長十九年(1614)十二月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同十一年(1671)に至り完成した。天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。  宇和島教育委員会    (現地説明板より)