伊予大洲城
[ ホーム ] [ 上へ ]

 

高欄櫓(72年6月)                      再建された天守閣と高欄櫓(07年3月K氏撮影)

八幡浜市から大洲市へ。「おはなはん」の生まれた土地といえば........。何年前、NHKでテレビドラマとなり、その「おはなはん」がこの伊予大洲で生まれたということが、何かしら私に一つの憧れを抱かせていた。見知らない土地に惹かれる人間の心情も、一人一人別なものがあるものなのだろう。田舎の平和な町の姿が、頭の中のどこかで、じっと楽しんでいた。町に入ると、期待通り古い建物があり、その隣、肱川の小高い丘の上に、小さな城があった。その麓には立派な市民会館が、現在の城として君臨し、多くの人々が活き活きしており、小さな町のそれなりの動きが、ほほえましく感じられる。私の想像に反しない、このたたずまい。夕方が近いせいか、人々の動きが目立つ。市民会館の裏手から、城山に登る。ほんの一またぎといった感じで、本丸に立つことが出来る。大台櫓がポツンとあり、その隅にもう一つの櫓が明日をつぶやいていた。市民の憩いの場として、うまく利用されているこの城は、何かしら、まだ生きている。(72年6月)

大洲城の沿革

大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。元和3年(1617)米子から加藤貞秦が入城しました。以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888)には天守も取り壊されました。しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。城跡も県史跡に指定され今日も大切に保存されています。4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに平成16年(2004)に木造で復元したものです。(現地説明板より)