高松城
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月見櫓(70年11月)                 月見櫓(08年10月K氏撮影)

城内では菊の展覧会中。小雨の降る空の下、かすんで見える城内。堀の海水が印象的だ。大手門の枡形を入り、左手に太鼓櫓を見る。三層の堂々としたものである。天正十六〜十八年、生駒親正の築城となる水城で、堀には海水を満たし、三重五層の天守閣があった。明治17年、老朽の為に取り壊し、今はその台の上に神社がある。現存する建物としては、艮、月見、続、渡の各櫓と水手御門。旭橋から桜馬場へ。桜御門跡を通り三の丸へ。陳列館を覗いて三の丸の庭に出て、報時鐘を愛で、月見、続、渡櫓、水の手御門のある前に出る。写真でなじんだ月見橋が側に立っている。うっそうとした暗がりのせいか、今にも刀を腰に帯びた武士が現れそうである。海水導入口を通り、二の丸へ。本丸へ続く鞘橋は架け替え中にて、残念ながら引き返す。(70年11月)

史跡 高松城跡

高松城は別名玉藻城ともいい天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐に封ぜられた生駒親正が翌16年(1588)に工を起し、約3年の歳月をついやし天正18年(1590)に完成したが、その縄張り、つまり設計は当時有名な築城家黒田孝高(如水)がしたとされている。この高松城は全国にも珍しい水際城(一般には水城)の跡である。昔から「讃州さぬきの高松様の城が見えます波の上」と謡われていた。生駒家が4代54年と、寛永19年(1642)常陸国下館から松平頼重(水戸光圀の兄)が封ぜられて以来明治に至るまでの、松平家11代228年の居城として、讃岐の政治、経済、文化の中心地となったところである。城跡は昭和29年1月16日松平公益会から高松市が譲り受け、翌30年5月5日『玉藻公園』として一般市民に開放した。また、彦根城と姉妹城縁組をしています。これは、井伊大老の次女、千代姫が第11代高松城主松平頼聡の奥方として輿入れしたことから昭和41年8月15日結ばれたものです。城跡は天守閣跡や石垣、堀などが遺存し国の史跡指定となっている。(現地説明板より)

重要文化財 高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓

昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島1万石(秋田県由利郡矢島町)に移封されました。その後、寛永19年(1642年)松平頼重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城の一つに教えられています。月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋め立てて作られた郭の隅櫓として延宝4年(1676年)2代頼常公の時代に、完成されたものです。ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに場内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入の監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。(現地説明板より)