高知城
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高知城大手門(70年11月)

国道55号線を一路高知へ。安芸市も過ぎて高知市内へ。真っ直ぐ高知城へ。 慶長六年九月、山内一豊は、かって長宗部元親の旧地に、新城の基礎をしるし、三年後に完成。享保十二年に焼失後復興した現在の天守閣も、明治、大正、昭和の三代、時代の荒波にも耐え、今なおきりっとした姿を残している。本丸もほぼ完全な姿である。搦め手より入った所に広場があり、右手に板垣退助の銅像があり、左手正面に大手門櫓が立ちはだかっている。そこの銅像わきより石段が登っており、一歩一歩と登る。道幅が広い。左手に石垣を望みながら、何度門趾の石組みを見たことであろう。目の前に、天守閣を含む一連の天守の建物群があった。渡り櫓形式で繋ぐ独特の櫓をくぐり、本丸の中庭へ。天守の中へ。天守閣の右の方に本丸御殿があるが、入れないようである。玄関が付け足しで、その後渡り廊下を通り天守閣の中へ。一階は資料があり、ざっと一回りして上層へ。作りとしては古い形式に属するのか。中には畳を敷いたあとがある。居間にでも使っていたことなのであろうか。場所をとらないためか、上に敵が登るのをいくらかでも防ごうとしているのか、物凄い急な階段を登って上へ。時々、狭間から外を眺めながら。三層五階、最上段よりの眺めは良い。天守に登って感じるのだが、天下をとった気持ちである。(70年11月)

高知城の沿革

高知城は、もと大高坂城といい、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これに拠って北朝方と戦ったと伝えられる。戦国時代、長宗部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併呑し、天正16年(1588年)ここに築城した。しかし城下に水難が多いため、数年を経ず浦戸に移った。山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川(6万石)から土佐(24万石)に封ぜられ、慶長6年(1601年)9月百々越前守を築城奉行に任じて工を起し、2年後、本丸を完成した。享保12年(1727年)越前町より出火し、全域大半類焼。同14年再建に着手。慶長創建の姿にならって施工し、24年を経て宝暦3年(1753年)11月竣工して現在に至っている。明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみを残して、城域を整理し、花木を植え、公園とした。昭和9年1月、天守閣及び追手門の建物が国宝(現在の重要文化財)に、昭和34年に城域一帯が史跡に指定された。また明治6年、県立都市公園となった。戦後は各建造物の修理に着手。追手門は昭和26年に、天守閣は同30年に、その他の諸建造物は34年3月に、それぞれ改修竣工した。(現地説明板より)