備中高松城
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本丸天守台跡(68年6月)

車窓には、岡山平野の田植え風景が、懐かしく心の中に映る。青々としているのは、畳表にするイグサであろう。そんな風景の中を25分走って、高松駅に着く。寂しい町である。駅前に雑貨屋らしきもの一軒だけ。頭の中の図面をたよりに、城址へと歩く。出てきた、出てきた「船橋」史跡。なんでもここに橋のかわりに船を並べて渡したと言うところで、今は小さな2メートル幅くらいの川があった。堀の名残かもしれない。それにしても感心させられるものは、この町がいかに史跡を大事にしているかと言う事である。一つ一つに親切なる案内板を書いていて、大変に解りやすい。その「船橋」を下り少し行くと、清水宗治が切腹したという所や、その時の血染めの着物を埋めたところや、二の丸跡などがあり、それより少し行って、本丸跡。半分公園化して、まだちゃんと存在していた。その本丸跡の草むらに踏み込んだら、小さな蛇が二匹チョロチョロと足もとを横切った。沼の中に築いたという城だけに、別にどこも高いところのない、平らな城である。昔の布陣の跡をその地形に当てはめてみると、一面見渡すかぎりの大湖沼になったらしい。(68年6月)

国指定文化財 史跡 高松城阯(現地説明板より)

 天下統一を目指す織田信長はその部将羽柴秀吉に命じ天正十年(1582年)春、兵三万をもって高松城を攻めさせた。この城は毛利家の東方を守る七つの城の主城で周囲が沼や濠でかこまれ、なかなか攻め難い平城で清水長左エ門宗治公以下五千余人の兵が護っていた。この地点が本丸で東に二の丸三の丸、北と西に家中家敷があった。秀吉は利を以て二度も降伏をすすめたが宗治公が之に従わぬ為、二回にわたって総攻撃をしたが城方は毛利の家訓百万一心の精神をもって一致団結よくこれを防いだ。秀吉は遂に軍師黒田官兵衛の献策をもちい、宇喜多家の千原勝則を奉行にして長さ三○五○米の土堤(高さ七米上幅十一米底巾二二米)を僅か十二日間で五月十九日に築き上げ足守川の水を引いて水攻めにした。二日遅れて毛利輝元・小早川隆景・吉川元春等の援軍四万が来て攻めたが土堤を切り崩すことは出来なかった。城兵は折柄梅雨の大雨で一八八ヘクタールの湖の孤城を死守した。六月二日京都本能寺で信長が明智光秀に討たれた為、秀吉は前途を案じにはかに意を決して、毛利方の軍僧安国寺瓊恵を招き城中へつかわし講和の勧告をしたところ、城将宗治は主家の安泰と部下の命を救う為和議に応じ後事を副将中島大炊介に托し、六月四日舟の上で誓願寺の曲を舞ひ辞世を遺して、四十六歳を一期とし潔く自刃した。次いで兄の月清入道軍監末近左エ門家臣難波伝兵衛もこれに殉じた。検視役堀尾茂助のたずさえ帰った首級を見て秀吉は宗治こそ「古今武士の明鑑」であるとほめ稱え持宝院(東五○○米)境内に手厚く葬ったのである。(明治四十二年この本丸跡に移して祀る)

宗治公辞世  うき世をば今こそ渡れ武夫の名を高松の苔にのこして  昭和四十一年四月 高松町文化財保護委員会