赤穂城
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大手隅櫓(68年8月)

赤穂駅前よりタクシーで城址へ。タクシーは、あの復興隅櫓のある所に連れて行ってくれた。なるほど、ここの姿は美しい。堀にはハスの花も咲き、でっかいおたまじゃくしが泳いでいた。しかしここだけがそれらしい風であり、中に入り本丸跡や裏門跡を見て行くうちに、なんかこんなにも気負い込んで来たのが、裏切られたような寂しさをおぼえた。しかし、赤穂浪士のブームにのってか、大石はじめ、他の面々の屋敷跡とおぼしきあたりに石碑があり、だれだれの住居跡とあるのには、感心してしまった。復興隅櫓の所にわずかと、本丸入り口あたりにわずか、堀が残っているだけであった。何とも寂しすぎる城址であった。有名過ぎる城にしては。(68年8月)

赤穂城(現地説明板より)

赤穂城は内匠頭長矩の祖父浅野長直が入國以来十三年の歳月を費し築城した山鹿流兵学の名城で、十の隅櫓、十二の諸門、曲輪の延長二十六町余間に及ぶ近世城郭史上非常に珍らしい変形梯郭式の海岸平城である。浅野家断絶ののちは永井家次いで森家の居城となって明治廃藩になったが明治十八年に至り白亜の城塞は惜しくも破壊せられ僅かに塁石にその面影をとどめる荒城と化した。その後七十余年を経て昭和三十年春四十七士自刃二百五十年祭を記念に大手隅櫓と一の門及び城壁の一部が復興せられ城趾一帯も特別史蹟に指定せられた。現在本丸は県立赤穂高校、二の丸には山鹿素行の銅像、三の丸には四十七義士を祀る大石神社、義士木像宝物館、元禄唯一の遺構である大石邸長屋門など義士の遺蹟がある。なをこの城は浅野家築城当初から城内に大石内蔵助を始め藩重臣の屋敷があり明治廃藩後これらが民有地に払下げられた結果他所の城郭とは大変に趣きを異にして現在でも城内には多数の民家が建ち竝び珍しい様相を示している。  赤穂義士会