岡山城
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月見櫓(68年6月)

前に一度広島に行った時には、この岡山の駅を通った事はあったが、降りたのは始めてである。案外に大きな町である。でも直ぐ横道にそれると、もうそこは地方の町並みが一杯と言う感じ。頭の中で考えてきた図面をたよりに、西口に下りて、タクシーにて城跡へ。タクシーの運転手、親切に道順を説明してくれて「城に行く時には、西口で降りるのではありませんよ」と言って、市役所だの、県民会館だのを、親切に教えてくれ、美術館の門になっている門は、城の門である事も教えてくれた。タクシーが着いたのは月見櫓の真下で、そのすぐ横には変な形の天守閣が姿を見せていた。月見櫓真下、屋根のそりの無い直線と、黒と白のコントラストが美しいその櫓は、高い石垣の上に建っている。年月の風雪に耐えぬいて。その櫓と天守閣との間の厳めしく大きな門をくぐり、石段を登って本丸へ。その本丸に出て、その門を横の月見櫓へ。その櫓の回りの生垣に近づくと、なんとも言えない良い匂いがした。よくその近くを見ると、なんか名はわからないが、物凄く良い匂いの良い花をつけた植物であった。これら隅櫓は、外から見れば美しいが、内から見たのではあまり美しさも欠けるようだ。特にこの城は、屋根のそりがないために、一般の屋根のように見える。しかしさすがに隅櫓、重文と言う歴史の重みも加わって、どっしりと大きく見える。それから最後の門をくぐって天守の立つ高台へ。本丸より一段と高くなっている。不等辺五角形の上に二層の櫓をのせ、塩蔵と組み込んであるその天守は、複雑に又それゆえに美しい。内部は六重で最上段はあまり大きくなく、十畳くらいの広さもあろうか。その途中の階には、他の復興天守と同じく、その歴史的物品が展示してあった。しかし一つだけ違うのは、二階に城主の間が、その当時のままに復元してあった。これなどもなんともいい感じがする。強いて言うなら、全部昔のままにしてこそ復興天守と言えるのではないでしょうか。しかしその他は、例にもれずエレベーターありで、他の城とあまりの違いはない。移築門を見に近代美術館へ。その門は両脇に居間を持つ堂々たる古い門で、近代的美術館の門としては不釣合いなものであった。もう一つの現存櫓である西手櫓を探しに小学校へ。NHKの建物や山陽放送の建物が見えてきて、その前に小学校があった。その小学校の門の脇に、池田公居館跡and西丸西手櫓の案内板があったので入って行く。この校庭からは、内側の方しか見えないので、こころゆくまで外の方の美しさを見れないのは、残念しごく。どこからか見えるだろうと、路の奥の方に入って行ったけれども、無理であった。その校庭たるや、色んな碑がオンパレードしていた。(68年6月)

岡山城天守閣(現地説明板より)

天正元年(1573年)宇喜田直家入城慶長二年(1597年)にその子秀家によって天守閣が築かれその後小早川秀秋を経て池田章政まで三氏十五代が居城した。この天守閣は安土城に則って造られ初層が不等辺五角形とかわった構へであった。昭和六年一月国宝に指定されたが惜しくも昭和二十年六月二十九日の太平洋戦争の戦災によって消失した。  昭和四十一年十一月三日三層六階(面積1609平米)のこの天守閣と塩蔵及び不明門、廊下門(何れも櫓門)六十一雁木上門本段周囲と月見櫓周辺の土塀が再建された。

国指定重要文化財岡山城月見櫓(現地説明文より)

 この櫓は、池田忠雄が城主であった元和・寛永年間(1615〜1642)に建てられた岡山城本丸表書院の西北隅櫓です。この櫓のつくりは、一部に地下をもつ二重三階建てで、一階は東西五間(9、69メートル)、南北四間(7、86メートル)で西に唐破風造の出格子窓、北に片流屋根の出格子窓をもち、これらの窓には「石落し」が設けられています。二階は方二間四尺六寸(4、98メートル)で北に唐破風造の格子窓、西に千鳥破風の格子窓をもち、東・南には手摺付の縁がめぐっています。屋根は入母屋造本瓦葺です。  構造的には、この櫓は軍事面一辺倒でなく、書院風に風雅を楽しむようにつくられており、二階の東・南をあけはなして、まさに月見に適するようにつくられていて、月見櫓の名称もこれに由来したとさえいわれるくらいです。 昭和四十三年三月 岡山市教育委員会