穴太寺


穴太寺門前町
西国三十三所観音霊場の二十一番札所として、いまも多くの巡礼者が訪れる穴太寺
正面が仁王門と本堂の大屋根


平安時代の終りから始まったという西国三十三所巡礼は、観音真仰の普及とともに
室町時代には庶民にも広がった。が、ブームを起こしたのは、江戸時代
「元禄のころから盛んに巡礼ガイドブックが発行され、札所巡りは賑いを見せた
これは、信仰だけでなく、人々の生活に余裕もでき、物見遊山的に各地を見て歩くことが
流行したということでしょう」と、亀岡市史編纂専門委員の石田康男さん(66)から聞いた

西国霊場で再興

その札所の一つが、亀岡市曽我部町の二十一番札所・穴太寺(穴穂行弘住職)
寺伝では、花山法皇(在位984〜6年)が同寺を西国二十一番霊場として再興
菅原道真も大宰府に流される前に立ち寄ったと言う

観光案内の情報を--と、開いたホームページには歴史や言い伝えも紹介しているが
「田んぼの中の一本道を歩く。穴太寺には時がゆったりと流れ・・・」と、
あくまで静寂の世界を強調。歩いてみたが、仁王門に突き当たる西条地区に
菓子店や商店などがあるだけで、門前のにぎわいとはほど遠い

人気の逆道巡礼

しかし、石田さんが言うように、穴太寺と二十番札所の善峯寺(京都市西京区)を
結んだ巡礼道は、江戸時代のガイドブックにも掲載され、行間からにぎわいぶりが伝わる
このガイドブックは寛政三(1791)年発行の「西国順(巡)礼細見紀」。
巡礼コースには「順道」「逆道」があり、おもしろいのは、十九番の行願寺(京都市)から
二十番善峯寺、二十一番穴太寺、二十二番総持寺(大阪府茨木市)へと回る順道の紹介は
ほんの少しで、それよいも十九番から愛宕山経由で二十一番の穴太寺へ出て、
二十番や二十二番へ行くコースに多くのページをさき、詳細に紹介していることだ。
愛宕〜穴太〜善峯の逆道巡礼が断然人気を集めていたのだ

それと最近の調査で、田能(大阪府高槻市)の有力者・並河平兵衛が書いた
「享保十(1725)年の日記」に善峯寺から穴太寺への近道を測量した記述がわかった
要約すると「穴太寺に向かうのに外畑(京都市西京区)から田能、小泉(亀岡市)を
行く本道ではなく、外畑からすぐ寒谷(亀岡市)に入る道が2キロほど近かった」という

あまりにも大勢の巡礼者が近道と称して寒谷コースをとるので、沿道の四集落が二手に
分かれて測量した結果だが、その日記に「外畑と穴太の茶店盛ん・・・」と書かれている

信仰象徴は観音さん

穴太寺門前のにぎわいを知る手がかりだが、同寺近くの小幡神社宮司でもある
上田正昭京大名誉教授から「東国は不動明王だが、関西の信仰の象徴は観音さんだ。
西国巡礼は江戸中・後期にブームになっているし、(穴太にも)門前の賑わいはあったと思う
私が中学のころの記憶だが、寺東側の家は終戦前まで巡礼宿だった」と、聞いた。

穴太寺の東側に細い南北の道があるが、お遍路が通った「表通り」という。
その向かいが、農業・斎藤孝司さん(71)宅で、「終戦の混乱で、宿帳などは散逸したが、
代々、巡礼宿で屋号は「よろづ屋」だった。祖母から巡礼の人やお礼参りの家族が
泊まったことを聞いている。戦後しばらく、薬売りや獅子舞の一行も泊まっていた」という。

斎藤さんの伯母で、同町重利に住む桂ヒサオさん(95)は、よろづ屋の二女。「小さい時から
お膳を運んだり、廊下掃除をさせられてた。境内ではからくり小屋や露店が出て
私もホオズキを売ったことがある」と、穴太寺周辺の門前の賑わいを懐かしむ

こうした穴太の巡礼宿は、ほかに「かわち屋」「もみじ屋」「みずあぶら屋」が軒を並べていた

穴太で生まれ育った公務員・斎藤英子さん(52)も「子供の頃(門前の)お菓子屋さんで
でっち羊羹を買うのが楽しみでした」と、門前の賑わいをしっかりと心に映している。


私の母上「木曽 清子」のふるさと穴太

私の、おふくろの故郷が実は、亀岡市曽我部町穴太でして、穴太寺から北へすぐの所です
木曽造園の材料も一部そこに置いてます


メ モ

穴太寺は、天台宗で、山号は菩提山。「あなおじ」と呼ぶ。
大伴古麿が慶雲2(705)年に建立したと、「穴太寺観音縁起」に伝え、
仏の慈悲をさとした身代わり観音の話も「今昔物語」や「扶桑略記」などにあり、
平安時代から知られた寺だった。
南面庭園は、多宝塔などを借景に、東西30m、奥行き25mの池泉式庭園。

杉苔がはえ、サルスベリ、カキツバタ、アジサイと、書院からの眺めは飽きず、心を和ませる。
自然石の石組は「50年位前、雑草を刈って出現した」というが、作者などは不明。

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