幻に終わった水間鉄道未成線(紀泉鉄道)
 清児〜犬鳴山間 11.0km

清児〜粉河間延伸計画
 
この路線は昭和2年、水間から和歌山県の粉河町(現:紀の川市)まで鉄道路線の延伸が計画された。しかし戦争等激動の社会情勢から立ち消えとなった。昭和22年に再び新線計画が浮上し、計画を練り直して申請、昭和25年に建設免許を受け用地買収着手した。この計画には巨額を要するため別会社として紀泉鉄道株式会社を設立する方針となった。
 新路線の予定地周辺での気運も盛り上がり、南海電鉄から車両(モハ561形 高野線山線用)やレールなどの現物出資が予定され、貝塚市からも50万円の出資が決まり、粉河町でも水間粉河電鉄期成同盟組合を結成し、関係方面に猛運動を展開するなど建設の機は熟した。しかし沿線の主要産業である繊維業界の不振や昭和25年に勃発した朝鮮戦争の影響などで、新会社の設立は一時延期した。26年に水間鉄道は改めて沿線関係町村長へ協力要請し、翌27年に景気が好転したのを機にようやく紀泉鉄道株式会社の設立をみた。計画以来実に25年の時を要した。



当時の和歌山新聞の記事
昭和23年2月15日号


その頃、長田村では昭和26年11月の町議会で村長は紀泉鉄道の新設を支援する為、協力委員を設ける事を提案し、承認された。粉河町でも町議会で紀泉鉄道敷設促進を求める決議を行い、軌道期成推進費を26年度予算に計上している。また、粉河町は昭和28年6月町議会で借入金によって紀泉鉄道株式会社に出資を議決している。

昭和27年10月20日より、株式募集を開始したものの当時の新聞では「今一息」と記載しています。募集高は1億円。各市町村の目標額は貝塚市13万株、熊取町5万株、大土村1万株、和歌山県13万株となっていました。しかし、沿線住民からはあまり購入意欲は無く、偉い方が何とかするだろうとの観念が強くて逆にいつになったら出来るのかと盛り上がりはみせていたが熱が足りずなかなか会社設立の目途はたたなかった。



着工(清児〜)
 
和歌山新聞 昭和26年11月11日号

 
沿線の測量は、高野山登山鉄道(現南海高野線)の測量と設計を担当した岡氏に委嘱、昭和26年から開始し、11月には粉河までの測量を完了している。昭和28年9月、水間鉄道では紀泉鉄道との連絡駅設置の分岐点となる清児駅の拡張工事に着手することになり、両社間で調印をおえ、工事は昭和30年3月起工、第1期線第1工区は清児駅から熊取町の中央部役場付近まで約5kmを昭和30年9月末には開通させることとし、経費1億5千万円は自己資金で充て、第2区熊取町中央部役場付近から犬鳴山までの約6kmの経費2億円は日本開発銀行から融資を得て着工の予定をたてた。
 一方、犬鳴山から和歌山県那賀郡粉河町(粉河駅)に至る約10kmの第2期線区間区間には和歌山県内田町内に東山田隧道があり、この隧道工事だけで2カ年を要することが分かった。そこで着工を早めるために昭和28年7月、大阪陸運局へ試掘認可を出願し、土質調査を行う傍ら電源及び土砂採取の交渉を始めた。
(※1)
和泉新聞 昭和30年9月23日号

第1期線
第1工区間の貝塚市、熊取町における用地買収はそれぞれ地主の承諾書を受け取り、順調であった。つづいて第2期線工区の用地買収交渉を進めながら、第1期線工区から工事に着手した。
 和泉新聞 昭和31年2月8日号

中断・延期(事実上の中止)
このような関係者の非常な熱意と努力によって計画は着々と進められつつあったにもかかわらず暗礁に乗りあげた。全線の工事に7億円の予算が必要となったからである。そのうえ日本開発銀行からの融資が政府の方針で却下されることとなりました。この資金の躓きは昭和27年にマスコミを賑わした『造船疑獄』でした。関係する運輸省の役人が大手船会社からリベートを取っていた事が暴露され、このとばっちりを喰らってしまいました。また金融機関の借り入れもすすまず昭和31年に1億円の資本が集まっただけでやむなく第1期線第1工区の着工を一部区間で枕木を並べただけで中断。この時点で紀泉鉄道株式会社は鉄道開通を事実上断念したようですが、このまま着工を放置するならば敷設権の確保さえ危ぶまれる事態にたちいった為、昭和34年3月水間鉄道は紀泉鉄道を吸収合併しました。また、将来工事が再開できる時期がきた場合、工事区間は清児〜犬鳴までと考えていたようです。
そして紀泉鉄道を合併した水間鉄道は鉄道ではなくバス転換を計画し紀泉鉄道予定線沿いの自動車道路をバスが走りやすいよう整備してもらうよう大阪府に相談していたようです。
 泉州情報 昭和34年11月7日号

第2期線廃止・計画変更
昭和41年10月20日の定例役員会で当時の水間鉄道社長はついに計画の一部を変更せざるを得ない事情を次のように述べた。
「情勢の変化から清児〜粉河間の延長計画を、今後短日時の間に全線完成させるということは至難となりました。建設資金も実に13億円という金額になりますので、当社の状況からみて不可能と言っても過言でもありません。そこで犬鳴山以遠の株主の方には、特に粉河町の株主の方々には誠に申し訳ありませんが、この際、犬鳴山〜粉河間を廃線とし、清児〜犬鳴間のみを一挙に開通したいと存じます。と申しますのは、これによって建設資金は半減し、用地の買収も熊取〜犬鳴山間のみにて、工事も清児〜熊取間は既に60%は完成しておりますので、何とかやりやすいものがあります。しかし、犬鳴以遠を完全に廃線にするのではなく、将来、情勢の変化によりその見通しがつきましたときは再度免許申請をいたす所存でございます。」
これによって建設費も6億5千万円に半減し、この費用のなかにはすでに用地買収及び土木施工部分を含んでいるので、4億円程度の資金で出来る見込みがついたと水間鉄道の社史には記載していましたが、社内では紀泉鉄道の話は冷め切っており、これらのコメントは株主に対するパフォーマンスかと思われます。

 また、昭和40年代に大阪府は泉北ニュータウンの開発に続いて大規模な泉南丘陵地区の開発を発表しました。計画によると開発地域は水間鉄道以南から熊取町のほぼ全域と泉佐野市の一部を含み、その面積は実に17ha。泉南ニュータウン計画である。
紀泉鉄道はその中央部を通ることでクローズアップされたが開発そのものが情勢の変化で凍結・中止となりました。その後、南海電鉄で熊取ニュータウンの開発が決まり、同時に紀泉鉄道第1期区間の清児〜犬鳴線は七山付近より、熊取ニュータウンの中央部を通過するように少し東側へコース変更され、都市計画道路「泉州山手線」と併走する予定でした。旧コースの見出川橋梁や築堤などは撤去され、宅地や道路になりました。そして熊取ニュータウンの中央部には都市計画道路といっしょに水間鉄道用地も代替確保されましたが工事が再開されることもなく売却されました。


参考文献:水間鉄道50周年記念社史「水間鉄道50年の歩み」、阪南新聞、南海朝日新聞、和歌山新聞、泉州情報

※1 東山田隧道について
 
当時、この区間の測量は完了しており、トンネル予定箇所では実際に調査や掘削工事の計画はしていたそうです。ただし、トンネル予定地は地元の人に聞いても古い話なので不明である。

 犬鳴山から先のルートは和歌山県に入り打田町の神通〜(東山田隧道)〜池田〜山田〜長田を通過して和歌山線の粉河駅を終点として予定していた。

おことわり。当時の紀泉鉄道及び水間鉄道関係者は現在は全員退職されてます。

貝塚市史
 
また、貝塚市史には紀泉鉄道敷設計画と題して以下のように記している。
国鉄阪和線・南海電鉄・水間鉄道、南海電鉄バス・水間鉄道バス路線路のほか、現在計画中のものに紀泉鉄道がある。紀泉鉄道の予定線は水間線の清児駅を起点とし、泉南郡熊取町の七山・熊取・朝代及び泉佐野市土丸・大木・犬鳴山を経て和歌山県に入り、同県池田村の神通・池田、長田村の長田を経由して粉河町に至り、国鉄和歌山線粉河駅を終点とするもので、単線で約21粁、運転時間は南海貝塚駅から粉河駅まで約50分と予定している。この鉄道は、
(一) 和歌山県粉河町が紀ノ川流域における農産・林産・鉱産の集散地であると共に紀ノ川バラスの採集地であるため、大阪・京都・神戸をはじめ全国各消費地への距離の短縮を図ること。
(二) 紀北地方より大阪に至る所要時間を従来の南海本線経由に比べて約半減、国鉄阪和線・南海高野線経由の約3分の1減として、旅客の増加、貨物の出廻りを促進すること。
(三) 沿線一帯を通じて商工業の発展を促すこと。
(四) 沿線の粉河寺・長田観音・犬鳴山・竜門などの観光景勝地を広く紹介すること。
(五) 従来から鉄道敷設を望んでいた沿線住民の要望を充足せしめること等をその敷設目的としている。
最初は昭和22年2月水間鉄道株式会社による新線延長計画に端を発し、同25年12月23日に認可されたが、同社の数十倍増資が不可能であるため、新たに紀泉鉄道株式会社が設立されたもので、既に事業計画・資金計画も樹立され、近く工事開始の予定である。

貝塚市史が発行されたのは昭和30年代であり、内容もかなり古いので、このような文書も見られた。


当時の貝塚市史に掲載していた地図には予定線が記載されていました。分岐駅が何故か名越駅になっている。

他に熊取町史や粉河町史にも紀泉鉄道のことが少し書かれております。