<木之本地蔵院>

御縁起

今その由来をたずぬるに人王四十代天武天皇の御時、難波の浦にながれつかれたのがその御本尊であって、天皇が夢にて一比丘がこれこそ南天竺龍樹菩薩の御作にて霊験殊の外あらたかなむな申し上げられるのをみられ感激おくあたわず直ちに難波の地に伽藍を建立せられ、唐土をへだて遠く扶桑の地に出現せられ且つ夜な夜な難波の浦に金光を放たれたといふ。
参詣の者頗る多かったこと申すまでもなし。
しかし地蔵菩薩は二仏中間の仏であられるので仏法の御縁深き地に安置してあまねく衆生をして其の慈光に浴せしめたいとの帝の御意により、奈良薬師寺の開山祚蓮上人(それんしょうにん)が勅命をうけこの尊像を奉持して有縁の地を求めて、当時より諸人往来のはげしかった北国街道を下ってこられた時、丁度柳の大木があったのでその下に御仏体を下ろされて御休息になった処、再びそこから動こうとはせられず、前にもまして金光を放たれた。あたり一面光明につつまれ、病に伏せし者は治癒し、災難にみまわれし者は難が消除したといふ。
誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像なり。
「この光こそ衆生救済、諸難諸病を遁れ願い成就したまう光なり、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地なり」と伽藍を建立せられたのがそもそも現木之本地蔵院の草創なり。
弘法大師も親しく尊像を拝礼になられ、人王五十二代嵯峨天皇の御時弘仁三年、何分にも星霜久しきにわたりしため霊躯破損おびただしき尊像を、大師は一刀三礼の式を以てこれを御修復せられ、閻魔王と倶生神の御脇士をおきざみもうされて安置れられると共に「永劫に末世衆生の諸々の願いが成就し給いし事、厄難厄病を除き給わん事」を祈り念じ上げ、紺紙金泥の地蔵本願経一部三巻を書経して御宮殿の中に奉納せられたという。
益々もって地蔵菩薩霊験あらたかになりぬ。


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