丹波2500年 旧石器時代

シンポジウムより

 近畿舞鶴自動車道の事前調査として、七日市遺跡(氷上郡春日町)と板井・寺ケ谷遺跡(当時、多紀郡西紀町)の発掘調査が行わた。この調査により旧石器文化の研究に大きな前進がもたらされた。当時の自然環境や人々の生活について、神戸で開かれたシンポジウム「旧石器時代の人間と自然」(昭和60年12月7・8日、県埋蔵文化財調査事務所)で報告された最新のデータをもとに、丹波地方のリアルな原風景を再現し、神戸新聞社の大町聡記者が紹介したものである。

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丹波2500年 旧石器時代シンポジウム 

(昭和60年神戸新聞より)

要                    約
篠山盆地を空から撮影。かつては湖だったのか。
篠山湖の誕生

 丹波の最終氷期ごろの山地は、より高くより険しかった。急斜面の岩肌は、寒冷な気候によってはがれ落ち、麓に穏やかな斜面を形成した。多紀アルプスはこうして形成され、一方、南部では岩くずが武庫川をせき止めた。盆地は湖水状態となり、水は川代峡谷から加古川へあふれ出た。
 古篠山湖の水深は浅く、篠山盆地に点在するこんもりした丘は、湖面に顔を出し、さながら多島海のようであっただろう。
 一万八千年前になると、湖水状態が解消。武庫川と加古川間で河川争奪現象が起こり、篠山川は現在のように、東から西へ流れて加古川の支流となった。盆地は堆積が進んで高くなり、篠山川支流である宮田川上流の流れが由良川へ逆流するなど、ダイナミックな変化が起こった。

板井・寺ケ谷遺跡の発掘現場。
植物相を変えた噴火

 寺ケ谷遺跡を取り巻くように見つかった泥炭層。その中央部を、姶良火山灰の赤っぽい帯が区切る。
 泥炭は、遺跡と同時代に生えていた樹木や草が水没して、長い年月の間に炭化したものである。二万五千年〜二千年前ごろ、水際の低湿地では、カヤツリ草科、イネ科、ミズバショウ属を中心に草原が広がり、水辺から離れた所には、ハンノキ属、カバノキ属、カエデ属、ヤナギ属が林を形成していた。山地では、氷河期の泥炭層からよく出てくるトウヒ属、少し高度を上げヒメコマツやチョウセンゴヨウの仲間のコナラ属、ツガ属など、亜寒帯針葉樹林とテリトリーを分けていた。
 しかしこの光景は、姶良火山の爆発により一変した。南九州で噴出した大量の火山灰は、西日本全体を覆い、山地・湿地ともに枯死する植物が続出。広葉樹林の荒廃、針葉樹林への移行という図式は、西日本のいたる所で見られただろう。
 氷河期といえば、氷と雪の中でマンモスとヘラジカを狩りした古代人を思い浮かべるが、六万年続いた氷期の中では、一時的に温暖な時期もあったらしい。

旧石器集落の想像図。
獲物を追い集団移動

 瀬戸内海、日本海から内部へ数十キロ、東経135度線の通る日本の中央部「丹波地方」に、二万五千年前に人間が居住していた。板井・寺ケ谷遺跡と七日市遺跡の調査で、旧石器時代人の生活がかなりわかってきた。
 板井・寺ケ谷遺跡。当時の人々の生活舞台は、山がすぐ近くまで迫る、湿地の岸辺だった。湿原に流れ込む渓流の両岸に、毛皮と木の枝を組み合わせたテントが十数基点在する。もっぱら女は、木ノ実や山菜などの採集に、男は狩りに出かけたようだ。
 一方、七日市遺跡。石器加工場ともいえる集落だった。約五千点の出土品のうち、ナイフ形石器など完成品は二パーセント以下。例のない、洪水で水に浸かる場所での居住も、仮の宿ゆえか。ここから出土した石器の形は、瀬戸内文化とは異なり、中国山地、北陸地方との関連が推定されている。