サラリーマンの人智学


やまぐち あきひこ



人生に失敗し続けること。自己嫌悪を繰り返すこと。そして、だめサラリーマンであること。これらのことに関してなら、私の人生は超一流である。常日頃から、そう自負している。そんな「ダメさの道」を日々追求している私の傍らに、人智学とシュタイナーが立っている。

大学に何度も落ちて終わらない浪人生活を送っていた頃、私はシュタイナーと出会った。『神智学』を読んだのが、出会いの始まりである。読むには読んだが、その書かれている内容は、さっぱりわからない。内容の理解できなさだけが、鮮明に記憶に残った。

絶対に合格すると何の根拠もなく信じこんでいた私は、周りの状況も省みず、浪人を続けていた。にもかかわらず結局、志望する大学にはいけなかった。当然である。受験生生活をあまりにもながく続けてしまった後遺症で、私の大学生活は完全に中途半端なものとなってしまった。入学を許された大学で、改心して学部の勉強を一生懸命にやる、というのならまだしも、それとは反対にまったく関係のない哲学書や思想書を読み耽ることで、現実から逃避していった。哲学書や思想書は恐ろしい。何もしていなくても、なんだか何かをやっているような気がしてしまうのだから。

それでも、学生時代の読書体験を生かして、大学院にいくとか研究者を目指すとかの夢でもあればよかったのだが、当時の私はそんなことをまったく考えもしなかった。「将来」という概念が完全に欠如していた。勉強はしなかったけれど、サークル活動は一生懸命にやった、仲間と楽しく過ごしましたというような青春とも、まさに対極に位置していた。

何をしていたのかいちがいにはうまく説明できないような大学生活を送ってしまった私の就職活動が、うまくいくはずもない。大学受験同様まったく思うようにはいかなかった。これといった目標があるわけでもないし、やりたいことも特にない。何かができるとも、やれる自分がいるとも思っていなかった。

バブル経済が始まるあたりで、就職活動の学生にとっては、とても有利な時代だったこともあって、有難いことに就職することができた。いまなら完全にフリーターである。なんとか就職することはできたものの、頼りない学生気分の抜けきれない私に、やりたいことが見つかるはずもなく、ましてや仕事がうまくいくはずもない。社会人としての自覚も覚悟もなかったために職場では浮くし、生活は迷走した。夜中に目が覚めて、眠れない日もあった。出社拒否ギリギリの精神状態だった。

全部私が悪い。すべて私の責任である。そのことは、いくら私といえどもわかっていた。まわりの人たちにもひどく迷惑をかけていたと思うが、当時の私は自分のことしか見えていなかった。結局すべては、自分のエゴイズムのせいであり、それと結びついた「ダメさ」が原因だった。

この頃、シュタイナーとの二度目の出会いが訪れる。

学生時代、哲学書に逃げこんだのと同じように、今度は神秘主義に、オカルティズムに逃げこもうとしていた。記憶に残っていた『神智学』の内容のわからなさに導かれて、『神智学』を読むカルチャー講座に通い始めた。

しかし、逃げこむという気持ちとともに「このままでは、絶対にいけない」という思いもあって、なにか現実を変える道を探してもいた。

普通はもっと現実的に、簿記とか税理士とかの資格試験講座に通うのだろうけれど、『神智学』を学ぶ講座に通い始めるあたりが、私らしい行動であった。

シュタイナーとのこの二度目の出会いが、私にとって決定的な出会いとなった。そのときはまったく思ってもいなかったけれど、『神智学』の言葉が、私の内面を少しずつ動かしていった。現実から逃げようとしていた私は、シュタイナーによって逆に、目の前の現実に深く関わるよう導かれていった。霊や魂の世界の話を通じて、かけがえのない一人ひとりの人間の尊厳について考えていくうちに、私の生活はより現実に、より世俗的な方向へと向かっていった。

どうでもいいと思っていた日々の仕事も、私なりに精一杯取り組むようになっていった。

ここから人生が劇的に好転していって、社会的にも成功し今日に至っていれば、シュタイナーや人智学をめぐる話としては理想的だ。

しかし、現実はそんなに甘いものではない。

情けない話だが、仕事に迷い生活に悩む状態は、シュタイナーと出会ってからも途切れることなく続いている。年齢を重ねるごとに、以前よりもひどくなっていると言ってもいい。

相変わらず、ほんとうにやりたいことが何なのかも皆目わからない。仕事はつらさを日々増していく。もはや家族のために逃げ出すことはできない。

日曜の夕方から明日の仕事が気になりだして、「会社、行きたくないなぁ」と思いながら、月曜の朝を迎える。若いころと同じように出社拒否ギリギリの精神状態で通勤電車に乗っている。そんな生活を毎週々々繰り返しているのだ。

40代半ばを向かえ、人生の折り返し地点を過ぎて、このザマである。

会社における地位や、これからの生活レベルの限界も、かなりというか、はっきりと見えてきてしまっている。

シュタイナーと出会って25年。人智学を学び始めてから15年が過ぎようとしているが、失敗も自己嫌悪も繰り返し続けている私がいる。

最近でも、会社の飲み会で記憶をなくすという失態をやらかした。そんなに飲んだつもりもなかったのだが、前日に上司から上期業務査定の予想以上に低い評価を言い渡されていたこともあって、やる気もなくしていたしヤケにもなっていた。それでお酒が効いてしまったのだろう。気がついたときには、自宅のフトンのなかにいた。目が覚めて、なんで自分が居酒屋ではなく、家にいるのか、まったくわからなかった。当然何を言ってしまったのか、どんな態度で飲んでいたのかもわからない。

エライ人たちも何人か同席していたので、サラリーマンとして大失敗である。

おまけに定期入れを落としてしまい、運転免許証からカード類まですべてを失くしてしまった。最低な人間である。

このときばかりは、自己嫌悪も最高レベルに達した。魂が抜けるほどに落ちこんだ。自己嫌悪があるレベルを超えると、食べることに罪悪感をもつことがわかった。「そんなことがわかってどうするの」という感じだが。

酔って帰って、家のものにも多大な迷惑をかけたようで、その日以来妻は口をきいてくれない。もともとお酒を飲む人間は人間ではないと強く思っている人なので、年内はもう口をきいてもらうのを諦めるしかない。息子たちも失態をみて、父親としての私の存在を全否定している。会社に行きたくないだけでなく、家にも帰りたくない。いや、帰れない状況となってしまった。

家のものが寝静まるまで帰れなくなってしまった私は、コーヒーを飲みながら、マクドナルドで時間をつぶすことにした。そのマクドナルドで読んでいたのが、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(以下『いかにして』と略す)だった。神秘学徒が守るべき態度が書かれている『いかにして』が、深い後悔の念を抱いて自己嫌悪の極地にいる私に、ふさわしいような気がしたのだ。おそらく何十回となく読んでいる本だが、また読み返してみよう、そう思った。

自己嫌悪が最高潮に達していたので、「畏敬」の感情に満たされたのだろう。

読み進めるうちに『いかにして』が、今までにはないようなカタチで、私に語りかけてきた。大げさにいうと、シュタイナーとイエス・キリストが重なって、イエスが貧しき人々に語りかけたときはこんな感じだったのではないだろうか、というような感情が湧き上がってきた。

やさしく静かに、少し小さな声で、決して強制することなく「これからは、こうしたらどうだろうか」と、こんな最低な私のために教えを説いてくれている、そんな感情だった。

そして、気づいてしまった。人智学を学んできたつもりの私だったが、シュタイナーの教えてくれている内的態度の、ただのひとつも真剣に身につけようとはしてこなかったことを。

読み返してみた『いかにして』は、やはり途方もなくスゴイ本だった。

『いかにして』のなかでシュタイナーは、「魂の進化」のための内的な態度を徹底的に語っていた。人智学は「霊」と「魂」の、つまり「内面」の思想であることを再認識した。日常生活において、魂を磨くこと。このことを繰り返し語っている。魂が盲目であれば、世界はその秘密を語ってくれない。まず、なによりも「魂」ありき、「内」ありきなのだ。そして、魂にとって大切な「思考」と「感情」をどう鍛えていくか。そのための具体的な方法を平易な言葉で示してくれていた。

人智学は、成果を期待することではない。現世利益的なこと、社会的に成功するとか、お金持ちになるとかといったこととは無関係である。大事なのは、成果や結果ではなく、まず「内なる魂の在りよう」を確立すること。シュタイナーが『いかにして』で提示している「内的な態度」をひとつでも多くもつことができるかどうか。もつことができないまでも、もつように努力しているかどうかが重要なのだ。

『いかにして』を読んで、超感覚的世界の認識についての考えも変わった。

超感覚的世界の認識は、特別な人間の優秀さの成果や結果ではない、むしろ、どうしようもない人間が少しでも自分をましな存在にしようと、成果や結果を期待することなく、忍耐をもって諦めずに努力していく。その努力そのものを愛することができる「魂の在りよう」に、ある日突然にもたらされる恩寵だと思った。だからこそ、このうえない淨福感をともなうのだろう。

また、ながい努力の果てにもたらされるその認識も、自分のためではなく、人間全体の、世界全体の進化のために役立たせなければ意味がないとシュタイナーは言っている。

『いかにして』の最後は、「菩薩道」を説いて終わっている。

『いかにして』の壮大なビジョンにふれて、改めてシュタイナーと出会ったように思う。私にとって、シュタイナーとの出会いは、失敗や自己嫌悪の人生途上で、何度も何度も繰り返される出会いなのだ。

「また失敗してしまった。しかしそれを忘れてしまおう。そして何事もなかったように、新しい試みを始めよう」。―神秘学徒はそう考えることが常にできなければならない。そのようにして、世界の中から汲み取ることのできる力の源泉が枯渇することは決してないという確信に到達するようになる。彼の地上的な部分がどれ程力を失い、弱さを示すようなことになっても、彼は何度でも自分を支え、そして高めてくれる霊的な部分を求めて闘う。彼はどんな状況のなかでも未来に向かって生きることができなければならない。過去のどのような経験も未来への努力を妨げてはいけないのだ。―以上に述べた特性を或る程度まで身につけたとき、高次の認識の鍵である事物の真の名前を知る用意ができたことになる。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』ちくま学芸文庫

後日談をひとつ。

『いかにして』を読み終わってから数日して、失くしたと思っていた定期入れが見つかった。休日体調をこわして寝こんでいた私のところに、妻に言い渡された小学生の息子が持ってきてくれた。どこにあったのか、どこで見つかったのか、妻は教えてくれない。なにせ口をきいてくれないのだから。

しかし、よかった。ほんとうに、よかった。助かりました。

これもシュタイナーのおかげだろう。

「シュタイナー、ありがとう」



「シュタイナー通信 Pleroma」vol.7 (2008年) 掲載