放 浪 と 巡 礼



和田 悠希

 シュタイナーによると現代人の多くはすでに感覚的世界から超感覚的世界へ移行するしきいを超えてしまったという(GA233a Dornach 1924)。しかしこのように言われても納得できない人が多いであろう。「私は見たり聞いたりできる感覚的世界以外は知りませんよ」という人が多数を占めている気がする。たぶん問題になっているのは潜在能力と意識的体験の違いではないかと思う。「あなたは水泳ができる」といわれるのと「あなたは今泳いでいる」との違いであろうか。泳ぐためにはまず水の中に入らないといけない。この第一歩を意識的に踏み出せない人が多いに違いない。

現代は意識魂の時代である、と人智学でよくいわれる。これは自分の中に価値の源泉(自我)を見いだそうとする、また見いだすことができる意識の進化段階を表すようである。

意識魂の一つ前に悟性魂の時代がある。この時代ではまだ価値や権威の源を自分の外にもとめていた。ちょうどよい例がテレビドラマ「水戸黄門」の最後の方のシーンにみられる。今まで敵と味方に分かれてチャンバラをしていた連中が、「控え居ろう!この紋所が目に入らぬのか」という一声で、皆地面にひれ伏してしまう。紋所に象徴される将軍家がこの時代の権威の元であり、そこから日常の行為(たとえば、ひれ伏すこと)は規定される。それを処理する過程で悟性とか理性が用いられる。

しきいを超える前の人類の意識魂は、まだ悟性魂的慣性を引きずっている。自我は自分の神聖さに気づかず、外界の事物、お金、地位、権力などに価値の中心を移してしまう。

では超感覚的世界へのしきいを超えた人類にとって意識魂はどのようなあり方が可能だろうか。それは行動や事物の価値を決める最終決定者、最高権威である自我の中に霊的な自我、高次の自我が浸透することではないだろうか。言葉を換えれば私たちの(日常の)自我が霊界と対話をすることができる時代に入ったともいえる。もちろんこれは「潜在能力」の話であって、現実には自我のポテンシャルはルシファー的、アーリマン的誘惑によって矮小化されてしまうことが多い。

シュタイナーのキリスト論によれば、個々の人間の高次の自我−「人の子」−の原型は宇宙的自我であるキリスト存在に求めることができる。日常の自我が高次の自我に向き合うとき、それは同時にキリストと向きあうことでもある。もちろん伝統的なキリスト教の枠組みの中にいない人でも、キリストという四文字に何の関心も持たない人であっても、自分の高次の自我から来る衝動を生きることができると思う。

1. 放浪の旅

私は10年ほど前まで京都のある教会に所属し,毎日曜日の礼拝に出席していた。礼拝は朝8時からと10時半からと二つあり,いろいろな理由で早朝礼拝に出席していた。この頃,早朝の方はあるアメリカ人司祭によって英語礼拝として執り行われていた。礼拝のあと皆で簡単な朝食を一緒にとる習慣があり,このとき出会ったあるカナダ人の若い女性の話を少し書いてみたい。

私が初めて話をしたとき彼女はすでに半年くらい日本に滞在していた。多くの外国人がそうであるように,彼女も日本に来たら京都に滞在したいという願望があった。たいしたお金も持たず,日本語も全くできない状態で日本に到着してから,真っ先に来たのは京都であった。最初は外国人のバックパッカーなどを相手にしている安宿を見つけてしばらく滞在していた。ここは男女に分かれた大部屋でざこ寝をするような環境で、居心地がいいとは言えなかった。しかしたくさんの若者がたむろしていたのでいろんな情報が得られた。そんな情報の一つから、英語教師の仕事を得て,教師と生徒という関係で何人かの日本人とも知り合いになれた。「京の町屋に住みたい」と言い続けていたら,実際に生徒の一人がある町屋の一室に下宿できるよう手配してくれた。日本人の友人も多くでき,週末ごとに誰かの誕生日やいろいろなパーティに招待されるようになった。

彼女の話を聞いて,内心「僕は20年以上京都に住んでいるが最近はパーティなどに招待されたこともない。生意気なやつだなぁ」と思ったりした。「でも物事がずいぶんうまく回っているようだね,秘訣は何」ときいたところ「主の導きがあるから。毎日祈り,主の言葉を聴くようにしている」と教えてくれた。

それから数ヶ月もたたない頃、彼女から突然日本を去ることにしたと告げられた。私は驚いて「でも仕事も見つかり,日本人の友達もでき,すべてが順調にいっているようだけど,なぜ‥‥」と尋ねたところ,アイムオンザロード(I'm on the road.)という答えが返ってきた。かわいいだけの20代の女の子と思っていた人からこんな強烈な言葉を聞かされて驚いた。

オンザロード(路上)という言葉は訳しにくい。ケルアックの小説のタイトルになったりして、放浪中という語感が強いが、彼女の場合もう少し宗教的ニュアンスがあったようだ。ちょうど旅に出ることを命じられた十二弟子のような意気込みだったのではないだろうか。「旅のためには,杖一本のほかは,何も持って行ってはいけません。パンも,袋も,胴巻きに金も持って行ってはいけません」(マルコ6/8)

しかし彼女の旅は他人に伝道する旅ではなかった。自分の意識の中に「主」を見いだすための旅とでもいうのだろうか。日々の糧が自動的には出てこない環境に自分を追いやり,そして「日々の糧を今日我らに与えたまえ」と祈り,「主」と自分との関係性を見つめていく。いったん環境がよくなり,日々の糧が容易に出てくるようになると,もはやそこに居続ける理由はなくなり「次の旅」に出発する。

もし私の娘が半年くらい外国で放浪の旅をしたいと言い出したらどうするだろう。まず「絶対に行くな」と止めるだろう。それでも行くと言い張れば,仕方がないのでクレジットカードやバンクカードを持たせ,疾病,傷害,盗難用の旅行保険をかけさせるだろう。というのも自分の意識の中で,寂しいときには対話をし,わからないことがあれば質問ができるような「主」とよばれる存在がなければ,その人は暗闇の中で生きる全く無力な存在だからである。無力である以上外側からの庇護が必要になる。

2.キリエ・エレイソン

「主」という存在が見いだせないため暗闇の世界に生きている人を霊的な書物ではよく盲人という言い方をする。しかしこの言葉は実際の視覚障害者にとっては迷惑な表現かもしれない。上の意味での盲人と視覚障害者とは何の関係もない。むしろ盲人と視覚障害者の違いとして,殆どの盲人は自分のことを盲人と思っていないが,一方で視覚障害者は自分のことを盲人と思っていても、実際には盲人でないことが多い。

「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ」(マタイ20/30,31)この聖書の部分より「主よあわれみたまえ(キリエ・エレイソン)」という言葉が、暗闇に生きる人がキリストと結ばれ光の世界へ救済されるためのマントラ(真言)的役目を果たすと信じられてきた。ミサの典礼文の中に出てくるが、この言葉がいかに重要視されていたかは、たとえばバッハのロ短調ミサ曲を聴いてみると分かる。冒頭にあるキリエ・エレイソンによる壮大なフーガは、曲の長さとしてはこの長大な曲のほんの一部にすぎないが、その音楽的重要性によって圧倒的な存在感を示している。

19世紀のロシアに生きた匿名の農夫によって書かれたとされる『巡礼の道』(註1)という本がある。この本の中で、上の言葉が繰り返し、連続的に唱える祈りとして取り上げられている。その農夫は「つねに祈っていなさい」(1テサロニケ 5/17)というパウロの言葉に触発されて、ではどのような祈りだったら、つねに祈っていられるか、という問いを持ち続ける。多くの司祭に聞いてまわっても納得できる答えが得られなかったが,ある隠遁者に出会い「主イエス・キリスト,我をあわれみたまえ」という聖句で祈りなさいと教えられる。「イエスの祈り」として知られるこの聖句を受け取った農夫はいろいろと工夫したあげくに,ある種の自分なりのヨガを発見する。

「まず,自分の心臓をイメージしなさい。視線が胸を通過してそのいきいきと動いている存在を直接見ているかのようにイメージしなさい。次にそのリズミカルな鼓動に耳を傾けなさい。この集中になれてきたら,次のように祈りなさい。まず最初の鼓動とともに「主」と言いなさい。次に2番目の鼓動とともに「イエス」,3番目に「キリスト」,4番目に「我を」,5番目に「あわれみたまえ」と。このようにしてできるだけ頻繁に祈りなさい。心臓の鼓動とともに祈ることになれたら,そのリズムに合わせながらさらに呼吸とも同調させることを練習しなさい。まず息を吸うときに「主イエス・キリスト」と合わせ,息を吐くときに「我をあわれみたまえ」と唱えなさい。この祈りをできるだけ多く,また長く練習しなさい。すると胸のあたりに心地よい痛みを感じ始めるでしょう。それは暖かみであることもあるし、ときには焼けるような感覚かもしれません。これはあなたのハートが自ら祈りだした証拠です」(註2)

著者はこのヨガのみを携えてロシアの各地を巡礼する。そして徐々に超感覚的世界が開かれていくのを体験する。自我とアストラル体とエーテル体に「イエスの祈り」を浸透させるやや強引ともいえるプラクティスであるが,霊的体験が同時にキリスト体験でもあるという点で,安全な道なのかも知れない。

(註1)
日本語版 『無名の順礼者−あるロシア人順礼者の手記』

A. ローテル訳・斎田靖子訳, エンデルレ書店

(註2)
私が読んだ英語版では「イエスの祈り」は
Lord, Jesus Christ, have mercy on me.
となっている。
鼓動に合わせるときは、
(Lord 主) (Jesus イエス) (Christ キリスト)
(have mercy あわれみたまえ) (on me 我を)
の順番になっている。
また肺呼吸に合わせる技法については:
息を吸いながら:
(Lord, Jesus Christ, 主イエス・キリスト)
息を吐きながら:
(have mercy on my, 我をあわれみたまえ)
と唱える。
私個人としては、後者の技法の方が入りやすく、合っているような気がした。

本稿は「ティンクトゥーラ・虹(vol.37, 2006)」に掲載されました。今回ネット上に再掲載されるということで、固有名詞的部分を削除したり、その他若干の書き直しを行いました。しかし主要な部分に変更はありません。(著者)