アルケミスト、それは未完成の
物語を生きること

坪井 裕実 

  



私とシュタイナーの出会い、それは遡ること22年前。幼児教育に携る友人から紹介された一冊の本、『魂の発見』(子安美智子著)との出会いから始まりました。我が子をシュタイナー幼稚園や小学校に通わせることなど夢の夢という時代にありながら、自分自身の親業としてシュタイナー思想に出会ったことは、本当に豊かな恵みだったと思っています。

あの頃私は、できる限り創造性あふれる学びの環境を子供に与えたくて、自然素材の衣類やおもちゃ、そして美しい言葉や色で表現されている絵本などをせっせと購入し、ホリスティックな学びのできる環境に子供を誘って行きました。その後、我が子の魂の座の根底には一体どんな精神が息づき、そして育って行ったのか? アニメやゲームボーイ(これはもう時代遅れ?)世代の子供として彼は2つの世界を同時進行させながら育っていったのではないかと思います。そして母である私の学びは・・・。

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また、数年前よりアロマセラピーやフラワーエッセンス療法など「自然療法」を学び始め、少しづつですが実践をしています。もう既にご存知の方が多いとは思いますが、ここでアロマセラピーについて簡単に 説明いたします。

アロマセラピーで使われているのは「精油・エッセンシャルオイル」と呼ばれる植物のオイルで、それらはそれぞれの植物としての特性に応じた香りを揮発成分として持ち、そして固有の「香りの物語」と繊細なエネルギーパターンを持っています。

使い方としては大きく分けて2つあり、ひとつは嗅覚を通じて脳のメカニズムに働きかけて神経作用をもたらす方法。そしてもうひとつは、濃度が極めて濃い精油を薄めて使うためのキャリアオイル(carry 運ぶという意味)と呼ばれるベースオイルに混ぜ、(これもまた植物オイルなのですが、精油ほど強い香りはなく、調理などに使われるほど穏やかな薬理効果を持つもの)それを用いて身体をマッサージ(トリートメント)して行く方法です。

オイルを身体に塗布し、そしてそれぞれの人の持つエネルギーパターンや呼吸のリズムなどに合せながらトリートメントして行けば、身体のあちこちに滞っている血液や気の流れをスムーズにし、そして深いリラックス感と共に感情の開放や浄化をし、肉体と精神の繋がりの快復、そして神聖な自己に対する気づきから自我の再生・再統合へと、美しい錬金術的要素を持ちながら私たちを「霊的な変容プロセス」へと導きます。

また、さらに波動医学的な要素を持つ「フラワーエッセンス療法」があります。野生、もしくは宇宙のめぐりに視点をあわせた農法(バイオ・ダイナミック農法と言ってもよいのかも知れません)によって育てられた植物たちの花やその他の部位を綺麗な湧き水の入った器に入れ、その器を太陽の光の元に置きながら静かに待ちます。(時間的には太陽高度の一番高い早朝から午後2時頃まで)このようにして植物の持つ情報をエネルギー転写したものを服用し、またサイコセラピーなど霊的なカウンセリングを伴った場を持つことで、精神的(霊的)な癒しを経験することができます。

具体的には花の色や形などの姿・ジェスチャーと、個人の性格・個性などそれぞれの魂の在り方の中に相関関係を観ながら、そこにある元型(アーキタイプ)を読み取り、深層意識の下に潜み影となっている部分に光を当てること。また、植物たちと繋がりのある惑星の性質と人間の魂との呼応性を見ることなどで傷を癒しながら、変容そのものを受容できる自我の強さと器を創るためのエッセンスを選んで行きます。こういうプロセスを経てゆく中で私たちは自分という存在の中に安定した癒しの空間を築くことになるのです。それはきっと自分の内の聖なる空間、また神殿を築くことになるのだと思います。

前述したアロマセラピーでも同じような経験はできるのですが、「フラワーエッセンス療法」の奥はさらに深く、より繊細な感覚を伴いながら秘教的なレベルでの変容の道程に私たちを導きます。こうして植物の形態成長の過程の中に様々なメタモルフォーゼを観ると共に、私たち、個の霊的な進化・発展の道程にも同じものを観ることができます。これはまさにミクロコスモスと共に見るマクロコスモスであると言えるのではないでしょうか。

またもうひとつ見逃してはならない視点として、精油もF・エッセンスも液体形状をしたただの物質ではなく、植物たちの精霊(スピリット)というエーテルエネルギーであるという事があります。「クイントエッセンティア」としての植物のエネルギーは、「より洗練された・これ以上純化できないくらい精錬された」という意味(思考)を持っています。癒しの本質を持つこの微細なエネルギーと私たち人間存在との交流。

ここで私たちは大地との関係を持ちながら、風や火、そして水の元素と交流をしつつ出来上がったF・エッセンスとのエネルギー交換を体験します。自然界の営みの中で織りなすこの物語は、ある時は美しく、またある時は悲しく、そして緩やかではあるのですがとてもダイナミックに私たち人間存在に働きかけをしてくれます。これは自然界と私たちの共同作業であると共に、四大元素の助けをかりた自己成長の変容プロセスであることを実感できる事でもありましょう。そう、私たち人間は5つめの要素、「クイントエッセンス」でもあるのです。

人間はこの地上に降りてくる時、様々な使命を携えてくると共にある種の傷をすでに持っているのでしょう。それは記憶の奥に秘められた古の傷であるのかも知れません。私はこの傷こそが霊的な美の現れであるし、また、財産であるように思っています。肉体や精神に先天的な傷やハンディを持ちながら、(ハンディ、既存の社会に無理やりに適応させるという不自然さを感じさせるこの言葉をあまり使いたくはないのですが)この世界に降りて来た存在たちがいます。植物たちの癒しのプロセスを知るにつれ、この子たちの魂がより深く肉体の中に入り込み、この地上での生を喜びとできるための支援者となりたい、そしてその為の社会環境をも整えることは私たちの責任ある仕事ではないか、そんな想いを強くして行きました。

自然界が本来持っている緩やかなシステムから遠く離れて生きてゆかざるを得ない私たちの暮らしと社会環境は日々新たに傷と痛みを作り出しています。心身に障害を持つ方達の生活支援、そしてDV(ドメスティック・バイオレンス)や児童虐待の体験を持つ子供や女性たちをサポートするNPOに属しながら、抑圧や支配という歪んだ力関係の中で病んでいる人たちと共にいる時、言いようのない無力感を覚えます。いつになったらこの世界は歪んだ男性原理から遠のき、健全な社会を創ってゆくことに深く目覚めることができるのでしょう?

私は自分の中にあるジェンダーの意識を観ると同時に、色々な場を共有している人達との関係性の中に、また意識を拡げれば世界という集団社会全体の中に一体どんな力学があるのかという観察をし始めました。それは同時に、その関係性の中から生まれてくるものは人間の霊的発展にどんな影響を及ぼしているのか?その様な問いかけの始まりでもありました。ケアの必要な子供や女性たちの殆んどは霊性という視点を持った治療の場からはおよそかけ離れたところで生きています。そして自然界のシステムからほど遠いところで作られた薬物を多量に投与され、そして生活の多くの部分は社会の規約などに管理されています。この歪んだ福祉や医療体制・保険制度の枠組みの中で、彼らだけでなく私達自身も、霊的な存在としての感性の開き方を知ることは殆んど無理なことのように思われました。

自分という存在そのものを深く感じ、そして人間としての正当な怒りや悲しみを表現できないまま、社会全体から遺棄されている人間がどれだけいるのでしょう? 痛みや傷を受容できる社会、それはどうしたらできるの? 自然というシステムの中で私たち人間は何のために存在しているの? そんな想いはさらに深くなって行きました。

この地上には地水火風の四大元素と共にクイントエッセンスである私たち人間がいます。自然界のエレメントやスピリットたちは人間の中に神聖で純粋な愛や光の意識をもたらしたいと、私たち人間の霊性に強く働きかけをしています。でも天と地の架け橋である私たち自身がその存在たちにオープンにならない限りは、スピリットたちの願いでもあるところの「共同創造」、co-creative な関係は成立しませんし、自然界の知性が活かされるチャンスはますます減って行ってしまうでしょう。

私たちが認知することができる「地球生命圏」というこの世界は、自然界の営みの背景にいる、崇高な知性や思考を持つ霊的な存在たちによって支えられており、彼らたちの美しい「知性」や「思考」を通して創造されて行く様です。私は里山づくりや森の再生などの自然環境保護の体験や子供たちへの環境教育の実践を経て、それを実感しています。

私たち人間は自然の営みに感性を開き、そこから何かを感じることができます。そしてその現象を深く読みとることを通じて、自然のなかに隠れている美しいインテリジェンスを取り出すことができるのです。その関係の在り方の中にもたらされたものが「癒しの本質」であるとしたなら、私たちはさらに深くその学びを理解しようと努力すべきなのかも知れません。そして、その道程を歩むことそのものが霊的な責任を果たす道程、そう言っても過言ではない様に思います。そしてまた、そこに繰り広げられる道程によって開かれてゆくべきもの、それは霊性に基づいた社会科学の中で生きるための「自己との対話」であり、また現象学的な観察力を持ちながら交わす「会話」の力、そしてそれによって育つ「有機的な自我意識」ではないでしょうか。

今、私のなかで魂のささやきとして聴こえる声、それは「この道程の先にある未来こそが有機的で、持続可能な社会」そんな言葉です。

ナバホインディアンの言葉の中にとても素敵なフレーズを見つけました。

Science walks in beauty.  生きるための、そして精神的修業のために大切なことは美の中を歩むことである。つまり世界の中に存在する美を見出し、世界を美しいものとして見なさい、そういうことなのでしょう。

今私たちはどんな世界を生きていて、未来を何処に繋いで行こうとしているのでしょう。完成図のないまま常に建築が続けられているガウディ建築の意味は?

世界の変容、発展も、また個人の意識の変容も、これで完璧というかたちや終着点はなく、ただあるのは変容の道程としてのメタモルフォーゼのみ。そして、この物語は道を歩む者たちの手によって、常に書き(描き)あらためられて行くべきものなのかもしれません。

変容のプロセスそのものを受容すること。傷みや傷、そして障害を携えても生きられる社会を創ること。目の前にいるその人を未完のままとして、素のままで美しい全き存在として理解し、受容できる人々が創る市民社会の構築。そこへの道程は未完のままであることを許し、問いを生きることができるとても緩やかな道程であることが大切なのかも知れません。

私たちは皆、星のささやきに導かれ、未完の物語を生きるアルケミスト。その道は多様であるけれど、帰って行くところはただひとつ・・・そう、ただひとつだけ。



† 坪井さんは2006年9月19日帰天されました。この文章は、『新潟シュタイナー通信ティンクトゥーラ』vol.32, 2005年に寄稿頂いたものです。

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