わたしのお薦め



『トランスヒマラヤ密教入門1〜4』アリス・ベイリー


アート・ユーリアンス編 アルテ



るしえる・AIN・ムーンライト

私たちの特定の発達段階で何ができるかを
把握することにつとめることにして、
隠された秘密をあきらかにするのは
永遠の手にゆだねようではないか?

アリス・ベイリーは、1880年にマンチェスターで生まれたイギリス人である。1919年から1949年の彼女の死までの間に主として、ジュワル・クール大使からのメンタルテレパシーによる18冊の著書と、6冊の自著を残している。彼女の著書とジュワル・クール大使のメッセージは基本的に現代に生きる我々に向けられたものと考えてもよい。

著書の中で、「なぜなら、現在の読者たちが他界し去っていったときに、これらを理解でき、また理解するであろう人々がいま転生しつつあるからである」と書かれており、ベイリーの当時の読者たちが、1949年生まれよりも以前に生まれているとするなら、まさに、現在50才以下の人たちがそれにあたるからである。

ジュワル・クールによれば当時の人々、そして、現在の我々も「唯一の真の神秘は、装置が不完全なために知ることができない啓示点である」ので、我々の持ち得る第一の智恵は、「無知の知」なのである。

彼女の著作活動はシュタイナーの死や、クリシュナムルティの「星の協会解散宣言」と同時代に静かにすすめられてきたものだった。

ここで僕の真意を誤解して欲しくないのは、僕が人智学を否定することを意図してこの著書を薦めているわけではないということである。僕自身はキリスト教的伝統で育てられた人間ではないので、本当のところで一神教ではなく、多神教的な感覚の方がなじめるのである。

シュタイナーは神智学協会のグラマー、主として自分の意識進化のレベルを競い合い、如何に人よりマスターたちに愛されているかといったうわさ話に辟易していただろうし、同じように、アリス・ベイリーも、霊的なレベル争いやセクト争いに嫌気がさして、神智学協会を去っていった一人である。彼女の選んだ道は何らかの協会をつくることや指導者になることではなく、いわば、マスターの秘書としてひたすらタイピングに一生を捧げたということだろう。

おもしろいのは、神智学協会は、ブラヴァツキー、アニー・ぺザント、そして、アリス・ベイリーと、女性に引き継がれていったことだ。当時の、そして現代社会においても、女性がリーダーであるということは社会的な異端であり、もう一つの道、オルタナティブな流れであると言えると思う。僕は、その当たりにとても魅力を感じる。

シュタイナーもベイリーもその著書の中で主張していることは、「信じるのではなく、思考すること」である。彼らの本は「世界の思考者」のために書かれているのだ。

思考することによって、思考では手が届かない領域が見えてくる。そういう状態に静かに佇むこと。抽象性=総合性、物事を象徴や数や幾何学で認識する能力を十全に発達させた人にだけわかる、それらを成立させているバックグラウンドにある「あるもの」の手触りを感じることができる。それをクリシュナムルティは、「中心も周辺もない空間を持たなければ、精神に自由はない」と表現したのだ。

もちろん、我々がそれを認識するまで、人類や世界のために何もせずに佇むことはできない。また、人類の過半数がまだ抽象思考になれていない現実がある。そのためにベイリーは「世界の奉仕者」としての道を提言している(ここにおけるベイリーとは、ジュワル・クール大使の発言としてとらえてよい)。

よくわからないけれど、魅力を感じる。こうした直感力に従って人は善なるものに導かれるが、悪に導かれる時に人は、感覚的誘惑や恐怖から行動する。神を語る様々なセクトが存在するが、その善悪を見分けるには、脅迫的言説があるかどうかということにつきる。言説が脅迫的ということはそれが、「思考的」なものではないということであり、物質的であり、偶像的であるということなのだ。

キリスト教も仏教も偶像崇拝を初期において禁じていたことを忘れてはいけない。それは、本来は言葉を文字通りにとらえることもまた一つの偶像であるということを含んでいたのだが、人類にはそれを理解できなかった。それ故にすべての経典は象徴によって書かれていたのだ。

思考を得意として、たたずむ人がいるかと思うと、感情を得意として、奉仕の行動に出る人たちもいる。意識進化の段階としては、前者が進んでいるだろうが、行為によって大きな前進をはかる人もいる。行為者は時に思考する人にコンプレックスを抱くが、彼らがよどんでいる間に、大きな前進を遂げることが奉仕によって可能になる。

「上のものが下に、下のものが上に」という進化の逆転の鍵を、「奉仕」という行為が握っている。しかし、より大きな奉仕をするための装置を自らの中に築き上げることに、「思考」という営みが鍵を握っている。よき弟子は、「思考」と「行為」のバランスをとる。

私たちはいずれにしても、幻惑の世界に住んでいる。そして、幻惑の世界のフィルターを通して真理を認識するならば、真理そのものの歪んだ像しか得られない。それでも、幻惑の世界においては、その像が真理の存在証明でもある。超感覚的認識力がなくても、真理の存在証明を思考によってもたらすことができるだろう。つまり、我々は「思考」という臨界の向こう側に、認識のあこがれとしての「美」を見いだし、それが、神、そして、宇宙の本質を一言であらわす矢印を示しているということだ。

私たちの発達段階でできることは少ない。しかし、謙虚なものには直観として、進歩の道しるべがやってくるだろう。真理は常に、私たちが知っていると主張する領域ではなく、知らないとする領域からやってくるのである。

★ マスター・ジュワル・クールとは?

聖白色同胞団のメンバーの中で、人類を秘教的に指導するといわれている人格の一人。地上に肉体を持つ場合と持たない場合があるが、ベイリーの著作において、受肉してチベットの僧院を指導する立場にある。

白色同胞団は、人類の意識の腐敗をみて、アトランティス期後半に、人類への顕教的関与から隠れることを決定したが、14世紀以降、世紀末と世紀初めの25年、合計50年において、世界への積極的関与をすることになり、その影響で、1877年にマダム・ブラヴァツキーが「ベールを脱いだイシス」を執筆、神智学協会を設立し活動した。初期のシュタイナーもドイツ神智学協会支部長をしていたが、もともとインド系のブラヴァツキーの情報と、薔薇十字会系のシュタイナーの情報にはアプローチの違いが見られ、ブラヴァツキーの後をついだアニー・ペザントはクリシュナムルティを世界教師として擁立した時点で、完全に袂を分かつことになった。神智学はサンスクリット語を多用したアジア的アプローチで、キリスト教社会を相対化したが、シュタイナーはキリスト意識の樹立というヨーロッパ的アプローチを採用し、よりヨーロッパの風土に根付いた秘教を展開したと言える。いずれにしてもどちらの情報も、われわれの判断を超えたものであり、何かに同化しようとするのではなく、シュタイナー主義者になったり、神智学徒になったりするのではなく、「思考し、吟味すること」が求められ、判断は保留しなくてはならない。

マスターの言葉をトランスチャネルしたとされる文書は、この他にいくつかある。レーリッヒ夫妻によって、モリヤ大使が伝えたとされる「モリヤの庭の木の葉」。少年期のクリシュナムルティがクートフーミ大使からの教えをテレパシーで記録した「大使のみ足のもとに」などがある。こちらから気づき、努力なくして大使があなたに関与することはないし、また、大使の注目を浴びているというナルシズムにもとづく修行は容易にカルト化する。

アリス・ベイリーは神智学協会を破門されているが、これは新しい教えを受け入れる柔軟性を地上の組織は失ってしまうからである。地上的集団は乗り物にすぎず、新しい教えは新しい組織を作り出して普及されることが原則である。しかし、マスターへの接触はあくまで個人の内面において行われ、その初期段階としては、個人のメンバーは魂への接触が必須条件となる。そのために、人は徹底的に個人的なカルマの問題をクリアすることが求められる。したがって、魂をもとめ、魂がマスターを求めるのである。あなたはまず、魂を求めなくてはならない。魂を求めるにはまず、あなたは自らの心(ローワーセルフ)とつながる必要がある。現在のヒーリングの文化は、心と繋がり、魂と繋がり、マスターと出会うという基盤を創り出そうとしているのである。

注意深くシュタイナーを読むならば、彼自身が自らのマスターを持っていることが文脈から理解できるであろう。しかし、彼はヨーロッパの学術的パラダイムの中に秘教の種をまくために、聖者崇拝とナルシズムを助長する方法をさけたのである。20世紀における人類進化の基盤は、思考力の訓練であり、アストラル体からメンタル体への意識のシフトであり、そのためには信仰ではなく、徹底した思考が要求される。シュタイナーもジュワル・クールも同様に「熟考」せよと語っている。いずれにしても、我々は感情のノイズを下げて、魂の接触に耳をすまさねばならない。ちなみにジュワル・クールは、一番最後にマスターとしてのイニシエーションを通過した若い大使であると言われており、意欲と才能に満ちた教師である。彼の言葉を是非、一度読み、熟考してみてほしい。

「新潟シュタイナー通信ティンクトゥーラ・虹」2004