私とシュタイナー

〜 感動を言葉にすることの重要性 〜

皆川 広毅

私には三歳と一歳の娘がいて、帰宅すると彼女たちは大概いつも笑っています。そこで二人に加わって遊んでみるのですが、これといって何か特別なことをして いるわけでもないのに、私は二人につられてつい笑ってしまいます。どうして二人が笑っているのかを説明するのは難しいものです。笑う理由があまりにバカバ カしいような気もするし、そもそもそれを説明することの意味に疑問を感じてしまうからです。だから、たぶんそういうものなのだろうと納得するしかありませ ん。強いて言うなら、ただこうしてみんなで一緒にいること自体がおもしろくて、それで笑っているのだろうと言うしかないのです。

私がシュタイナーに出会ったのは高校生の半ばくらいの頃で、知人の母親の本棚に『カルマと転生』を発見してからであると記憶しています。それから ずっとシュタイナーの思想に魅了され続けているのですが、進歩があるかと聞かれれば、ある、と言えるだろうし、しかし何かが変わったかと聞かれれば、本質 的にはあの当時と何も変わっていないような気がします。ただどこか変わったとすれば、私の人生に言葉では説明できない「何か」が生まれたと言うことができ るようで、恐らくそれはシュタイナーの世界観によるものなのです。

私は環境問題の研究者になりたくて大学に進学したのですが、授業の一環として現代思想を学んだとき、人生の危機に陥りました。根っからの哲学者だっ た私は、世界を論理的に説明できると信じていて、またそうするべきだとも思っていました。ところが当時の現代思想では、「言語では何も解決できない」とい う考え方が主流であり、私にはそれが大きなショックだったようで、それ以降、一字たりともエッセイを書けなくなるという苦境に直面したのです。 しかしそんな私を救ってくれたのが、ネイティブアメリカンの血を引く大学教授の一言でした。「旅の始まりはいつも終わりを暗示する」とその教授は言いまし た。つまり、「初心に帰れ」ということ、最初の心境に立ち戻るなら出口は必ず見つかるということを言われたのです。また、「あなたが今、一番好きな土地 に、毎日通い続けなさい」とも言われました。私にとってそれは大学の近くにあった波止場の小さな公園でした。毎日そこに通ってはカラスやカモメ、公園の木 々たちや、時折打ち寄せる波たちと言葉にならないような会話を試み、それにより、やっとその迷宮から脱することができました。

同じようなことが妻との出会いにもありました。 妻は書物からよりも人生から学ぶような人です。いつも書物に埋もれ、自宅にはテレビがあるわけでもなく、世間のことは自分の成長には重要ではないと信じて いた私にとって、それとはまるっきり逆の彼女の考え方は私には刺激的でした。そして彼女と付き合い、彼女が大切にしている文化に触れていくうちに、あるこ とを悟ったのです。私がそれまで毛嫌いしていた大衆文化というものは、そこに誰もが認める普遍性があるからこそ人々に支持されるのだということです。私は 人間的な価値に重きを置く彼女の姿勢に大いに感動し、それからというもの彼女を人生の目標にしようと思うようになりました。

シュタイナーの言葉を理解し始めたのは、人生にそのようなことがあってからでした。もしそれがなければ、恐らく私がシュタイナーを本当に理解するこ とはなかったでしょう。シュタイナーの言葉をそのまま受け取るのではなく、それが自分の人生で熟成されたことで、私は今ある認識に導かれた気がします。

かつて人類はこの宇宙と一つの意識に結びつき、それが幾千もの魂に引き裂かれることで、私たちの個別の意識が誕生しました。レムリア期以降、私たち はアストラル体の流れを頭上で遮断することによって宇宙との一体感を失ってしまったわけですが、しかしそれによって、私たちの内部は自らのアストラルの光 によって照らし出され、宇宙の意識からは独立した人間に固有の意識を持つに至りました。それが物理的な脳によって頭部のエーテル体に書き込まれることで記 憶が生まれ、私たちがこの地上の生を実感できるようになったのは、宇宙のそのような進化の結果であると、シュタイナーは語っています。

確かにこの意識は人間が生みだす幻想かも知れません。しかし私にとってこの地上はかけがえのないものです。この人生があったお陰で、私はそれがなけ れば気づかなかった多くのことに気づくことができたのですから。子供たちと接するたびに時間が永遠に止まってくれたら、と繰り返し思います。その願いが世 俗的で感覚的なものへの執着だと言われたとしても、そこから得るものは私の胸には収まり切らないほどに大きいのです。

人間の意識が宇宙の断片的な鏡像に過ぎないという神秘的事実は、人間が宇宙から切り離されたことへのやり場のない憤りと深い悲しみに変わります。し かし人間よりも遥かに高次の霊的存在たちは、人類を見放したわけではありません。神々たちが何百万年もの宇宙の進化を通して私たちに働きかけてきたのは、 人間が利己的な衝動に流されて傲慢になるためでも、孤独の闇に閉ざされて悶々と生きるためでもありません。自身の内部を覗き込むとき、私たちはそこに神々 からの贈り物を見つけます。人間は自省できる存在であり、自分の運命を自分の目で確かめることができるのは、過去の神々による宇宙で最も尊い犠牲があった からだと信じます。自我意識はまさに宇宙の奇跡です。私たちは誰もが例外なくその恩恵に与ります。それは私たち全員が神々の祝福を受けていることを意味し ます。すなわち、この日常に出会う誰の中にも宇宙の意志が働いており、私たちが他者の中に無限の可能性を見出せるということ自体、人間存在がこの宇宙進化 で特別な使命を課されていることを示唆しています。そのような現実を思い起こすたびに、私たちはそのことを厳粛な感情で受け止めざるを得ません。 私たちはまだ奇跡を言葉にできるほど進化していません。私たちの自我は生まれたばかりなのですから。そして言葉はただ、遠い未来に実現するであろう微かな 可能性として人類に備わっているだけです。しかしこの地上の生活で数え切れないほどの挫折を経験し、現実の荒波に打ちひしがれて悩む分だけ、私たちは、強 くなります。私たちはこの地上に神々の恩恵を知り、崇高なまでのその叡智の結晶を、道徳的な秩序に変換するために生きているのでしょう。言葉はそのために あるのであり、今はまだ人を傷つけるだけの私たちの言葉も、いつかは地上の多くの存在を幸福にするはずなのです。私たちはそれを学んでいるのであり、地上 の大切な出会いと、そこから得られる感動こそが人類を最も遠くへと前進させるに違いありません。

人間はこの地上に二本の足でしっかりと立ち、人生の深さを認識し、そこから得られる美しさと醜さを、人生の次の選択へと生かします。人生のそのよう な選択に人間の自我が関わっているという事実、つまり、自分の運命を自分で決定しているというまさにそのことは、私たちの個別の人生が宇宙進化の一部であ ることを物語っています。一人ひとりの運命に神々が働きかけており、だからこそ人生は人類と神々との共同作業であると言えます。 私たちは他者と生きる存在であり、第一に人は周囲の人からの愛情に支えられて生きています。そして、それと同じく大きな力が、見えない世界からも働きかけ ています。そこには出会いを結びつける天使たちの働きがあり、決断に深みを与えるルシファーとアーリマンの働きがあり、生命の意味を教えてくれる自然霊た ちの働きがあり、時代と民族の特質によって人格の基礎を決定づけるもっと高次のヒエラルキアたちの働きがあります。

多くの存在の眼差しが、私たち一人ひとりの人生の決断と行動に注がれています。人間は、多くの存在とともに宇宙の進化に従事する労働者であると私は よく思います。私たちは上を向き、そこに天空の神々を見上げます。彼らの偉大な叡智を科学の力によって賛美の祈りへと翻訳します。私たちが下を覗き込むと き、そこに自分自身と出会います。そしてその深みのうちに、宇宙の根源的な愛の計画を発見します。遥か遠い夜空を夢想したり、運命の優しい導きを回顧した り、私たちの精神は、まるで振り子のように天地を移動し、地面に汗や涙を染みこませながら、この時代を輝く未来へとつなげる共同作業に地道に働く労働者で あると、私はいつも思うのです。

私たちの時代の始まりには、この地上に生きることは何よりも美しいと教えてくれた偉大な師が生きていました。彼は三年の間、この地上に人間として生 き、神でありながらも人間の涙を知り、歓喜を知り、そして自らを捧げることで人類に一つの輝かしい未来を約束してくれたのです。それはもし私たちがこの地 上に人間精神の美しさを見つけるのなら、大気中の死者もその他の見えない存在たちをも含めた私たち全ての存在は、永遠の命を得るであろうというものでし た。彼の行為こそが言葉であり、それは遠い未来に人類が到達するであろう存在の究極の理想を具現化したものでした。私たちの若い心魂は、ルシファーから運 命の遠い未来まで見通す自我という尊い宝石を受け取り、その宝を、他者理解のために用いる具体的な例をキリストに学びます。人はこの地上で他者の優しさに 出会い、また他の見えない存在に支えられながら、そこにキリストの愛を理解しようと奮闘しているのです。もし、キリストが約束したように私たちが本当に他 者を理解することができたなら、そのとき私たちはキリストと永遠に生きることを知るでしょう。

科学の偉大な発見も、芸術の傑作も、それら全ては人が人と出会うことで互いの人生を共有するためにあるのでしょう。互いの違いを知って傷つきあい、 寄り添って生きることに不可能を感じることがあったとしても、言葉は、遠い人類の未来には、目には見えない私たちの思いをいつか一つに結びつけてくれるは ずです。たとえ言葉にできない感情が私たちの生命を圧倒したとしても、そのことに悲観する必要はなく、人類の一人ひとりに秘められた無限の可能性を信じる のなら、私たちの言葉はいつか宇宙を一つにすることでしょう。

私はシュタイナーからそれらのことを学び、自分の運命によって、それを確信できたような気がするのです。




「シュタイナー通信 Pleroma」(2007.4.1発行)より転載


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