『赦しの隠された意味』の紹介


倉橋汞輔



セルゲイ・プロコフィエフ著『赦しの隠された意味』(和田悠希・遠藤真理共訳 涼風書林 2011年刊)について、色々と思ったことなども含め、書いていきたいと思います。

まず、著者のセルゲイ・プロコフィエフ(Сергей Прокофьев)ですが、彼は有名な作曲家、セルゲイ・プロコフィエフの孫にあたります。

プロコフィエフは、人智学が禁止されていたソヴィエト時代に、命がけで研究、実践を行っていたそうです。現在では、ゲーテアヌム理事の一人であり、多数の人智学に関する著作活動を行っています。中でも、一時オランダの人智学協会に参加し、後に当協会長にそこを去るように言われた有名なエソテリスト、ヴァレンティン・トンベルクを批判的に扱った著作、『ヴァレンティン・トンベルクの場合:人智学かイエズス会主義か』は、人智学者以外の人々にも広く読まれ、その内容が物議を醸しました。また、ニコライ・リョーリフ(ニコラス・レーリッヒ)やアリス・ベイリーの神智学、そしてそれらに関わったとされる“マハトマ”を扱った『西洋の光の中の東洋』(シュタイナーの講義録と同名ですが別もの)などもあります。

プロコフィエフに対する評価は様々で、非常に高い評価が与えられている場合もあれば、かなり手厳しい批判もなされています。ここでは詳しく述べませんが、日本国内においても賛否両論あるようです。

さて、本書の構成は、以下の通りです:

日本の読者のみなさまへ
まえがき
T 赦すこと ― 現代の緊急な課題
U 主の祈りの第五請願と第五後アトランティス文化期
V 七つの例にみる赦しの行為
W 霊学的観点からみた赦すことの本質
X 赦しと現代におけるキリストへの道
Y 赦しの隠された意味
Z 赦しの本質と七層のマニ教的秘儀参入
[ ルドルフ・シュタイナーの人生におけるマニ教衝動
あとがき
補足資料
著者註と訳者註
訳者あとがき

タイトルの通り、本書では赦すことや、それに付随する事柄について、霊学的、エソテリックな観点から語られています。プロコフィエフは人智学を、霊学的な“言葉”として用いるというシュタイナーの理念を、本書U章で紹介していますが、まさに本書全体が、そのようなあり方をしています。それ故、シュタイナーの語った内容が本文中至る所で適切に用いられていますが、他方、文脈に関係なく、そのシュタイナーの言葉ひとつひとつから、いくらでも思索を展開させることが可能であり、そのような読み方もできる本なのです。

さて、本書V章では、実際になされた赦しや、或いは赦すことができず、失敗に終わった実例が紹介されています。本書を読んで、最もストレートに私たちの胸を打つのは、こうした具体例だと思われます。V章以外でも、シュタイナーによる赦しの具体例が数多く取り上げられています。

こうした、シュタイナーなどによる赦しの例ですが、彼らの、あまりに犠牲的精神に富んだその赦しの行為を知りますと、深い感銘を受けたり、畏怖の念を感じたりすることもあるかと思います。翻(ひるがえ)って、私たち自身に目を向けますと、あまりに利己的、保身的な性格の勝ったあり方をしていることに気づかされ、例として挙げられているような人々との落差に、愕然としてしまうかもしれません。また、V章でのシュタイナーの例におけるように、それが非常に重い内的な葛藤を伴う場合もあると解りますと、赦すことは、ますます私たちには荷が重いものである、と思われてしまうかもしれません。

こうした現状にある今日の私たちにとって、赦しを実践する決意を駆り立てるのは何でしょう。それは「愛」だと思う人もいるかもしれません。確かに一面ではその通りなのですが、殆どの場合、それだけでは、利己的な今日の人間が赦しに向かうには足りないのです。シュタイナーは『自由の哲学』の中でこのように語っています。「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。1ここでは「自然科学の知識」とされていますが、これは霊学の知識を含むものと考えても間違いではないと思われます。高橋明男氏も指摘していましたが、2 昨今、人智学的な諸実践に携わる人々の中でも、多かれ少なかれ人智学的認識の内容に対する無関心が蔓延(はびこ)っているように見受けられます。しかし私たちは、人智学的霊学の内容に基づいた、人間・世界の進化の展望に繰り返し触れることにより、赦すことや、愛する能力を発達させるための強力な刺激を受け取ることができるのです。そうした世界の進化に関する霊的な認識内容は、我々の道徳的な衝動に点火することができるのです。本書では、そのような霊的な進化の諸展望についても、たびたび触れられております。例えば、本書Y章には、このようにあります。

私たちは赦すとき、キリストが高次のレベルで絶えずなしていることを、小さなレベルでなし遂げるのです。キリストはアカーシャ記録庫の中で、世界に向けられた私たちの不当な行為、感情、思考によって生じた形跡を消し去ります。同様に、赦すことによって私たちはキリストに倣うのです。高次の自我の力を借りながら、私たちになされた悪事の痕跡を自我の記憶の流れから消し去ることによって。
キリストはアカーシャ記録庫の自由になった「場所」に自らの聖霊を吹きこみ、未来の木星紀とその道徳的世界を準備します。人間はキリストに倣うことによって、すなわち、真に赦すことによって、現時点ですでに未来の木星紀と道徳世界へ向けて生き始めるのです。3

こうした人智学的な霊学によってもたらされる世界観は、赦しを含む私たちの個人的な道徳的生活のあり方が、将来の宇宙に関する、非常に大きな何かに関わっているのだ、ということに気づかせてくれるのです。マイスター・エックハルトは、何か大きな事を成し遂げるよりも、日常の小さなことを行う事の方が難しいことがしばしばある、といったことを語っていましたが、これは赦しにもあてはまると思われます。例えば、前ローマ教皇ヨハネ・パウロU世は、彼を暗殺しようと狙撃した犯人に面会し、赦しを与えましたが、自分が狙撃される、などという経験のある人は、あまり多くはないでしょう。しかし私たちが行う“小さな”規模での赦しでも、それが霊的に見て重大な意味がある、という事を認識しておくのは、小さなことではありません。

ところで、これは日本人特有の性質なのか否かは解りませんが、もし実際に、何等かの赦しを行うとしても、私たちの傾向として、「わかった、赦そう。しかし赦した相手とは、もう関わりたくない」と思いがちになることが多いように思えます。勿論、そうする以外に方法がない場合もあるでしょう。しかし、もし赦した相手とその後も関わり続けようと決意した場合、またはそうすることが不可避である場合、当の相手との、その後の関わりは重要なものとなります。本書でプロコフィエフが述べている通り、場合によっては、内的には相手を赦していたとしても、外的には毅然とした態度を取らざるを得ない場合もあるでしょうし、相手に対して何等かの処置を施さなければならない場合もあると思います。ですが、事柄全体を可能な限り善い方向へ持っていくことができ得る場合もあるでしょうし、少なくともそうしようと努めることはできるでしょう。

本書Z章及び[章では、悪に敢えて関わり、それを善へと変容するマニ教的秘儀がテーマとして扱われており、これは本書の眼目のひとつであると言えます。

この秘儀にこそ、マニ教が人類の中で果たす固有の使命の最高次の原型が示されています。その使命とは悪を拒絶することではなく、そこから逃げることでもなく、むしろ、それを完全に自分の中へ受け入れ、キリストの新しい霊視体験から生じる力によって善へと変容することです。ここに深い神秘が隠されています。私たちが考察してきた二つのプロセス、真に赦すことでカルマの法則を変換することと、エーテル界におけるゴルゴタの秘儀を通して客観的な悪を善に変容することが統合されたのです。4

プロコフィエフは本書X章で、赦しはキリスト・薔薇十字的な霊的道程のひとつの段階に過ぎないと述べています。X章では、その霊的な道について、かなり具体的に解説されていますが、赦しはその2段階目に相当するものです。マニ的秘儀は遠い未来に実現するもので、キリスト・薔薇十字的な道は、「その実現への準備の道」だとしています。そして、この二つの霊的な道を混同すべきではない、とプロコフィエフは強調します。

ご存知の方も多いとは思いますが、シュタイナーはマニを非常に高く評価していました。1903年8月31日の講義においてシュタイナーは、仏陀、ゾロアスター、スキティアノスの三者よりも、マニは高次で強力であると述べています。シュタイナーによれば、マニ教的な霊統は、第六根幹人類期(現在は第五根幹人類期の第五文化期です)において開花するものです。第六根幹人類期では、人類は善の人種と悪の人種に分かれてしまいますが、未来のその時点においてマニ教的な霊統は、悪に陥ってしまった人種に外側から働きかけ、善へと変容させる事を目的としています。現在の第五根幹人類期においては、人種と善悪は何の関係もありませんので、今日におけるマニ的秘儀は、遠い未来への準備であると言えます。そして、その時においては、マニ的秘儀を行う人々はオカルト的な力を行使する、というシュタイナーの発言についても本書で触れられています。

プロコフィエフは、「悪を吸い込み、善を吐き出す」という錬金術的なマニ的秘儀のプロセスを「道徳呼吸」と呼んでいます。余談ですが、そのカルマ的、道徳的なあり方については議論の余地があるかもしれませんが、今日において、既に似たことを実践している人々は存在しています。そうした人々は、――彼らはある種の秘儀参入者や神智家ですが――既に作りあげられてしまった悪しき元素存在を一度自分の中に吸収し、聖霊の中へと解消するといった「白魔術」を実践しています。

いずれにせよ、「吸い込む」際にはある種の自己克服の要素が必要となります。シュタイナーは1904年11月11日の講義で、マニ教的な道を、寛容さで悪を克服する為の準備をするものだと語っていますが、そのような意味において、マニ教的な道は、寛容さの育成を出発点とするものであり、本書X章で解説される霊的な道程の第一段階も、ここに大きく関係してきます。

私たちの感覚を少しずつ教育しなければなりません。まず「自我感覚」から出発し、次に「思考感覚」、そして残りの感覚を訓練することによって、個々の自我、思考表現に寛容になり、さらに諸々の人間性と出会う社会生活での真の寛容へと発展させることができます。このことこそ、エーテル界のキリストが現代の私たちに目標とするように呼びかけていることなのです。ここに、「キリスト衝動は、思考形成の道筋の中で直接働いている」という霊学の深い真実が具体的にいい表されています。5

ここで述べられている認識の性格は、よく「対象に語らせる」という言葉で説明される、シュタイナーのいうゲーテ的自然科学のあり方と共通点を持っているように思えます。自らの中のあれこれを沈黙させた上で、――ただし自身の自我は失うことなく――認識すべき対象が告げることを受け止めるというあり方です。今日では、自らが作り上げた理論、仮説、モデルを対象に投影する方法が好まれていますが、こうしたやり方は、二元論的な世界観を克服できず、むしろ助長してしまいます。ですので、ここでも、本書で述べられているような意味での寛容さが必要とされるのです。

以上、本書について、ほんの僅かばかり見てきましたが、その内容について汲みつくすには遠く及びません。未読の方々は、是非実際に本書を手に取っていただきたいと思いますし、こうした事柄についての思索と話し合いが深まることを願っています。



1. 『自由の哲学』高橋巌訳 第十二章 「道徳的想像力」 p217
2. アントロポゾフィー研究所のはじまり
3. 本書p125〜p126
4. 本書Z章p158
5. 本書X章p74〜75

「シュタイナー通信プレローマ」 No.19 (2011年)より転載