「共同体」



遠藤 真理



「Dの6」
運転手が三度そう答えるのが聞こえた。
入り口で、彼女は何度も尋ねていた。
「デーじゃなくて、ディーね」運転手の発音を直しながら後方へ向かっていった。
席の近くに行ってもまだ迷っている様子だった。近くの男性が見かねて教えてくれたのに応答する彼女の声が、車内に響く。 
「ありがとう。他の人の席まで覚えてるなんて、すごいのね。What's your name? あなたの名前は?」
答える若い男性に続けて彼女は聞いた。
「下の名前は?」
そうやってとりとめのない、ほとんど独り言のような話を続けながら、バスが動き出すと、しばらく静かになった。食事を始めたらしい。
けれど再びその声は聞こえてきた。
ほとんど絶えることなく。
読んでいた本を閉じると、なおさら声の大きさが気にかかり誰と話しているのだろうと訝った。というのも、ときどき意味の取れる内容は相手がいて喋っているとしか思えなかったから。彼女の話し方はどちらかというと論理的に聞こえた。「つまり、」を連発し、必ず前に言った言葉を言い換えて説明する。けれどじきにそれが単なる口癖なのに気づいた。同時に、彼女の独り言を許容できるほど忍耐強い車内の空気に次第に苛立ってきた。
「うるさい!静かにしろ!」
そのとき突然女性のどなり声がした。
「うるさいから静かにしろっていってんだよ!」
「自分の方がうるさいのに、何言ってるんだろ。あなたも静かにしてください」
「このブタ野郎!」
誰が誰に言っているのか前方の席にいる者たちにはすぐには判じなかった。
そうしていつの間にかその女性は通路に立っていた。口論となっている異様な雰囲気に驚き、そのときようやく振り返り、女性を見た。細面の顔立ちで紺色のパンツスーツ姿、一見して五十歳代の女性だった。1人の男性が彼女の方へ向かって歩いていく。
「ちょっと邪魔だからどいてくれ」
「なによ」
「トイレ行くんだよ。だからどいてくれ」
一瞬緊張した女性の顔がゆるむ。まもなく彼女は高速道路を走っているバスの通路を足早に前方へ向かって歩いてきた。
「運転手さん、もう1人の乗務員は?」
「おりません。この時間帯は私一人なんです」
「いないの」
「そうです。一人なんです。この時間は」
運転手に絡もうとしているのを見かねた近くの席の女性が、「危ないから座ってください」と彼女に言う。
「危ないって?」
「みんな座ってます。立ってる人なんていないでしょ」
「へー、じゃあ、あなたトイレ行かないの?」
「行きますけど。そういうことじゃなくて・・・」
「地球人じゃないんでしょ! だから行かないのよ」
「地球人じゃない」と言うとき、一瞬こちらに向き直り、表情豊かにたっぷりとジェスチャーを交えてみせた。彼女はどう見ても酔っているように思えた。
通路側の私の隣の若い女性も言葉を添えた。
「転んだら危ないから、座ってください」
「転ぶってなに? 転んでないでしょ。えっ、誰がこけるの」
女性は彼女の言葉尻につっかかってきた。それから通路を歩きながら、両脇に座っている乗客一人ひとりを上からにらみつけ値踏みするような眼差しを送った。隙あらば何か言葉を発そうとして。誰もが彼女と目を合わせないようにしていた。おそらく、彼女は話し相手が欲しかったのかもしれない。自分の言うこと、それも辻褄のほとんど合わない反論を聞いて欲しくて、手当たり次第、彼女にもの言う人をつかまえては煽り立て、言葉を玩んで戦おうとしているように見えた。
「うるせえんだよ。黙って席に座ってろ!」
それまで抑制していた感情が切れたように、男性が自分の席の目の前に立った女性に言い放った。女性と男性はしばらく言い争っていた。そのうち乗客皆が彼女に降りてもらおうと言い始めた。女性自身もその言葉を受け、「分かった、降ります!降ります!」と叫んだ。席に戻ると自分の荷物をもって再び前方へやってくる。運転手にまたもや話しかけ絡もうとするのに危険を感じたもう1人の男性が、彼女を押さえ、「ちゃんとここに座ってなさい!」と諌める。叫びながら抵抗する彼女は、どうにか最前列の席に押さえつけられたまま座り、またもや管を巻いている。見ればその手には缶チューハイが握られていた。それを飲みながら、前列横に座り彼女の行動を阻止しようと見張ってくれている女性と話し始める。ほとんど普通の会話が成り立たない。そのうち彼女は缶を振りまわし、液体が隣の女性のコートの袖口に飛び散った。持参していた紙袋をあげると言いながら渡そうと絡んでいる。拒否すればさらに激昂しそうなのが分かった隣の女性はいったん受け取り、また彼女の座席の前に荷物といっしょに置いた。次の停留所はあとどのくらいかかるのだろうと不安が増してくる。若い女性が運転席の隣に座り、状況を説明しながら携帯で連絡をとろうとしていた。
ようやく川越的場に到着する。ちょうど乗車する乗客がいたらしい。女性は最後まで何事か喋りながら自分で降りていった。彼女の後を追いかけるように運転手も急いで降りる。運転手はしきりに出口階段のある戸を指し示す。スライドさせ、手振りで下へと言っているようだった。ところが女性はそれを拒否し、停留所ボックスの中へ入っていく。椅子に座り込み、運転手としばらくやりとりしている。けれどやがて外へ出ると運転手を振り切るように、小走りで駆け出していった。どうにも困り果てた運転手はバスに乗り込み、携帯で連絡を取りはじめた。女性は高速道路の本線の方へ歩いていく。道路の白線内に添って歩き、見る間に姿が小さくなっていった。それをバス前方の窓から見ていた乗客はどうなるのだろうと不安気だった。じっと女性を目で追っていた乗客の一人が言った。
「あっ、道路の中へ入ってったよ!」
ざわめきが車内に広がった。しばらくすると、前方を走っていく乗用車から赤いランプが点灯するのが見えてきた。何台ものブレーキランプが点滅している。気がつくと、一台の車がその近くで停車していた。かなり長いこと停車した後、車は発車した。乗客から、
「乗せてったのかねえ。でもあんな人乗せたら、たいへんだわ」
とホッとしたような声が聞こえる。外で長いこと携帯で連絡を取っていた運転手からアナウンスがあった。
「今、警察がこちらに向かってますので、このままでいてくださいとのことですので、よろしくお願いします。」
それを聞いて乗客から声があがった。
「先急いでるんだよ。一人で勝手に道路の方へ出てったんだろ。運転手さん、おれたちはどうしてくれるんだよ」
「申しわけありません」運転手はただ謝るばかりだった。
車内は騒然として迷惑そうな声が上がり、困惑した空気と恐怖に満ちた感情とが入り混じった状態となっていた。急ぐ乗客の怒りの感情をなだめなければという思いが私の心を占めた。
「こんなふうに遅れた場合の補償はどうなってるんですか?」
思わず私はそう運転手に聞いていた。
「遅れた場合の補償は申し訳ないですが、ありません。ご了承ください」
バス内の空気は少しも落ち着くことなく、場違いな質問をしたことを恥じた。誰もが重苦しい空気に呑まれ、言葉数は少なくなっていた。ところがしばらくすると、どこからか話し声が聞こえてきた。後方の席で2人の男性が話している。事故とはまったく関係のないことだった。就職活動のことを笑いを交えながら熱心に。「こんなに何回も東京行ったのはじめてっすよ」「たいへんですねー」
別な席では携帯で友人や家族と連絡をとっている声が聞こえた。誰もがこんな事件に巻き込まれてしまった不運に不満を抱いているようだった。ついさっきまでいっしょにバスに乗っていた女性のことはもはや念頭になく、自分の身に起こった迷惑至極なこととして捉えているように思えた。そして確かに私の一部分もそう感じていた。隣の女性が言った。
「なんでこんなバスに乗っちゃったんだろうって、思います」
私は肯いた。そして私もそう思うと答えた。
「ありゃ、死んでるな」
「いっぱい車止まって渋滞してるしね」
別な男性乗客が携帯で話す声が聞こえた。
「今、渋滞してるんですけど、なんかあったんですか?」
自分が当のバスに乗っていることは告げずに、とぼけた声音で聞いている。その隣の女性が笑いを堪えている。つられて私も含み笑いを洩らしていた。こんなときに笑える自分がいることに驚いた。
「事故? あっ、そうなんですか。どんな? ふーん、人身事故ね」
声の主は淡々と会話していた。終わると、「人身だってよ」と隣の女性に、やっぱりねと当然のような口調で語った。
ようやく警察が到着し道路はインター間が通行止めとなり、長い渋滞ができていた。乗客はいつ帰宅できるとも分からず、ただそのままで待つしかなかった。埼玉県警の交通捜査課の職員が乗り込んできて、状況を確かめる。女性の席、持ち物、名前の確認、どのような状況だったかを書き留める。2,3人の乗客が外へ出て、警察の調書を受けていた。
運転手からようやく帰りのバスが下の一般道路へ向かっているとのアナウンスが入ったのは、事故発生から3時間以上たってからのことだった。バスが到着して、「申し訳ないですが、100メートルほど歩いたところに止めてありますので、そこまで歩いて行ってください」と言われると、「えー、そんなに歩くの」と奥から不満げな声があがる。ようやくバスから降り、階段を下ると、そこは公園のある住宅街だった。誰かがバスの中で、あの女性が下に降りなかったのは回りは田圃で何もないからだ、ともっともらしく言うのを聞いたので、そうではない風景に驚いてもいいはずなのに何の反応もない自分がいた。その先の道路にバスは止まっていた。100メートルのキョリは短く感じた。むしろ、夜の冷気を吸って歩くのはホッとする感じだった。
21人が無言でぞろぞろと夜道を歩いていた。何だか不思議な感覚がした。何の面識もなく、1人の知り合いもいない、ただ2008年の4月1日、18:05分池袋発○○行きというバスに乗り合わせただけで、1人の女性を通して起こった出来事によって、決して忘れ去ることのできない時と場を共有することになった私たち。そのような事件でもない限り、このひとときはすっかり記憶の底に追いやられるであろう日常の一こまに過ぎない。そのとき、これも「共同体」なのだ、という乾いた意識が夜の空間を流れていった。
一つの理想・理念や信念の下に集う意識的な共同体が片方にあり、偶然出会い、ある時間帯をいっしょに過ごすことになる一集団としての偶発的な「共同体」。この二つは大きな差異があるように普通は考えられている。では、ある理念の下に集まった共同体がヒエラルキア的に上で、それ以外の日常茶飯事に多々集っては散っていく、一見縁もゆかりもないように思える集団はヒエラルキア的に下なのだろうか? 一つの信念を皆で共有し、理想に向かって進んでいく共同体のメンバーはそれぞれ互いの違いを認め、許しあい、高めあっているのだろうか? ある場所と時間において偶々隣同士になった見ず知らずの集団の一人ひとりは、自分個人の殻に閉じこもったり、互いに何の関係性も見つけられず反発したりするばかりなのだろうか。そこに理想とまではいかないにせよ、暖かみや援助といった精神的な繋がりは一瞬でも見出せないのだろうか。理想を共にする共同体では、今は到底不可能に思えても高みに近づいていこうとする熱の力はいつも保たれているのだろうか。この二つに、もし一瞬でも永続的にでも「共に」という衝動が芽生えるとしたら、その熱は同じところから発しているのではないのだろうか。かつてイエス・キリストが地上で説いた愛の原理は、父母・兄弟姉妹を超えて、隣人へと向かうものだった。その隣人とは同じ信念を持つものだけではなく、偶然そこで出会った者、そして敵対する者すら含まれていた。ならば共同体の理想とする行く末は、すでに共同体という名称と形にさえ囚われないそれを超えるものを内包しているはずである。
つまり、理想へと向かう一共同体と、偶々集うところに偶発的にできる「共同体」とにはどんなヒエラルキア的な差異もない。いかに偶然に見えるところでもそこにはある意志が働いているが故に、目に見えないエーテルの渦が起こり、アストラルの波を共有し、一人ひとりの内なる聖杯に注がれる一滴がある。日毎に、新たに人々の集まるところで―たとえそれが二人であっても―、私たちはその一滴を無意識的にせよ受け取り、また与えている。でなければ、人は人と出会うはずもない。一瞬ごとに顕れては消えていく「共同体」の種。
                                     
確かに一つの理想の元に集まる人々の間に流れる懐かしい空気、自分の内なる一部を抵抗なく開き、お互いに親密に交流できる喜びには安心感と落ち着きがある。けれどそこに留まり籠り続けることでは見えてこないもう一つの道がある。その方角から聴こえてくる声を遮断することはできない。キリストという存在はある理念を旗印にする人々の間に留まることなく、異邦人、まったく見ず知らずの人々の間に入っていく道を示した。それを感じるとき私の中ですぐさま思い浮かんでくる言葉がある。カトリックのミサで最後に司祭が唱える言葉である。
「ゆきましょう。主の平和のうちに」
ゆきましょう。どこへ?
それは教会の外、見ず知らずの人々のいる場所へ、であると確信している。
決して教会内で、共にミサを受け信念を同じくする人々のあいだに留まれと主は言われていない。外へ、主の名も知らず祈りを唱えたこともないような、日々の生活を営む人々の内へ、ミサで受けた恵みと力である「主の平和」を持って入れ、と言われている気がする。平和とは自らのものだけではない。そして痛みのあるところには平和はありえない。安泰ではない痛みに満ち満ちた日常へ、「主の平和」を持ってゆくようにと告げられている。おそらく、司祭から発される最後のこの言葉は、十字架につけられ復活したイエスが弟子たちの前に現れ、告げられた言葉からきている。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)
同様に、もし、人間聖化式で深い平安と恵みの賜物を受けたなら、決して共同体の内部に留まるはずはないのではないだろうか? 人々の内に入り、そこでキリストという自我を纏った私たちは活動しようとするだろう。主ご自身が、キリストが、そしてよりより高い自我に満たされた私自身が外へと広がりをもつはずである。では、その私の自我から外へ向かった働きで私たちはどんなことを行えるのだろう。
あのとき、疲れと痛みと恐怖と驚きと後悔と諦めと困惑等のいくつもの感情と思いが混じりあった中で、こうして夜道をいっしょに歩いている私たちは一体何なのだろうと、ぼんやり夜の暗い空間でただ意識だけが漂いながらとりとめもなく考えていた。たくさんの思いが空間に流れていた。その波の一つに浸かるとそこへ囚われ、別な波が押し寄せるとその色に染まっていくのを感じた。そこにいた21人分の思いの波があった。
私たちがあの女性といっしょにいたのはたった1時間のことだった。
一生の時の流れからすればほんのわずかなその時間によって、彼女は生涯忘れられない重みを私たちの心に植えつけた。ほんの一瞬で人は変わる。拭いきれない深さとなった闇が完全にあけることはなく、幕にすっぽりとおおわれてしまった箱は決して手にとって開けることはできない。時間を越えてまるでその場にいた者たちに君臨するように謎をかけたまま。彼女はそんなことさえ意図していなかっただろう。むしろ彼女の言動は浅はかで、汚辱に満ち、怒りと恐怖を煽りたて、不快感を呼び起こし、あまりに周囲を省みない自分勝手なものだった。精神に異常をきたしていたのかもしれず、アルコール依存症患者だったかもしれず、とにかく彼女は法規を乱す存在そのものだった。そして、そんな彼女を私たちは切り離した。異端分子として。あの場にそぐわない者として。その正当な理由付けは数多くあった。私たちは彼女をバスから降ろすことで、罰した。
彼女の迷惑な言動で車内は騒然となった。彼女が起こした事故によって、その空気はさらに乱れた。人身事故を起こしたことを聞きつけ当然だと言い放つ者。恐れにこわばる者。自分の個人的な用事しか念頭にない者。就職活動の話題に花を咲かす者。遅れたことを車掌に責める者。それぞれが各々の事情と思いをぶつけていた。狭い車内にいると、まるで乗客一人ひとりが自分の中に潜む様々な人格のようだった。次から次にたくさんの私が現れた。怒りの声を聞くと、自分の内で呼応する人格が同じように腹を立て、心配そうな口調を耳にしたとたんそれに同調し、後悔する溜息に引寄せられ、無感動な様子を見れば事故が起こったことをまるで他人事のように平然と突き放して見ていた。偶然乗り合わせた21人の「共同体」はそのバラバラな思いと感情とで、だからこそ共同体という集団なのだった。しかもそのバラバラさ加減が自分の内にあるのは確実だった。邪魔者だった彼女を追い出したことで、それはより明らかになった。
どうすればよかったんでしょう? 誰かの声がした。こうするしかなかったのだ、と私は自分に言い聞かせた。勝手に本線に飛び出て跳ねられ、何台もの車に人の形もなくなるほど轢かれたのは彼女の責任なのだ。この事件は彼女の言動が招いたものであって、私には責任がない! 私はいつしか自分に言い聞かせていた。私たちはできるだけのことをしたはずだ、と。正当性を主張する「言い訳」は山のようにあると思われた。私は私に向かって、自分は無実だと言っていた。
人智学にかかわっている人々のあいだでは、今がミカエルの時代であるというのはほとんど口癖のように言われていることである。何ものにもかえることのできない、かけがえのない個人の意識魂が芽生え、成長の過程にあることもよく知られている。古い感覚魂や悟性魂の時代を乗り越え、一人ひとりの内から発する魂の発言が重要なのだと。人智学や共同体に係わっている人々はそれを知る自分たちの意識こそが最先端だと思っている節があるが、意識魂を見つけようと思ったら、自分の属している会社の人間関係や友人関係、家族関係のどこにでも見当たる。何も共同体内部だけが特殊なのではない。身の回りを見渡せば事足りる。自由なる意志のもとに発する言葉と行いにこそ、至上の価値があると考えるのは現代人であれば誰しもがそうだろう。
では、ミカエルという存在はここで私たちに何をするのか?
意識魂とはどんな魂なのか?
自由なる意志の元から発するとは?
これらの問いの答えも一通り人智学や共同体に係わっていれば聞いたことがあるだろう。ミカエルは人間の行うことに何も手出しすることなく見守り、結果ではなくそのプロセスを大事にする。意識魂は階級や性別に捕われることなく、内なる衝動から発言し行う魂であり、それこそが自由なる人間の本質と結びついている故に貴い。
さらに言えば、手を出すことなく見守るということは、すべてが自分の責任の元に為されるということである。内なる衝動から行うとは、個人の内面が絶対だということである。自由の本質とは、すべてが許されているが故に誰も裁くことなく孤独だということである。
ミカエルは無慈悲である。
あの女性が自分の自由意志で(たとえアルコールや薬で感覚が麻痺していたとしても)、白線を越え本線へ入るのを止めることはない。ヒエラルキアは条件づけで働くことはないのだから。数分前にいっしょにいた人々が彼女が轢かれるのを黙って見ているのを許すほどに。否、「許す」という言葉すら必要としないほどに。彼女も、私も、突き放す。おまえたちが選んだことを見よ、と。
リッテルマイヤーは「祈りについて」の中でこう言っている。「人間は祈りの中で天使がどのように働いているかを理解しはじめる。」祈りをこの地に下ろせない私は、行いの中で天使がどのように働いていないかをこのとき知った。
個人の衝動は自分自身と他者をもときには巻きこみ呑みこむほどに強い。その衝動が荒れ狂うアストラル体にのって外へ放出されたとしても、「自由」と「衝動」という名の元にどれだけの思い違いがまかり通っていることか。ただ人は新しく手に入れた自由という衝動に酔い痴れているだけで、その酔っ払いの戯言をありがたく身内で宝物のように口々に言い合っているのが人智学や共同体に係わる者―私なのだ。
人間の本質である自由の霊は、その幼さ故に自分の羽が生えそろっていないのを見ようとはしない。飛べない羽で懸命に羽ばたこうとして、幾度も地に落ちる。その供犠にも似た行いをヒエラルキアたちはどのように見つめているのだろう。小さな自我の霊は自分が悪を担っていることに気づいてもどうしようもなく、ただ足掻くことしかできない。いくら認識のか細い一筋の光を当ててみても、悪を変容する力は脆弱なままである。自我意識を持った意識魂は、互いに好き勝手なことを言い放ち、仲違いし、他人を傷つけ、仮面を被り、嘯き、すりかえ、理由付けをしてかわいい自分の自我を守り、ますますエゴイズムの切っ先を鋭くしようとする。一人ひとりが自己主張を繰り返し、孤立化していく。ときに共感に傾き、ときに反感を持ちうまくバランスがとれないでいる。
教会の扉を押し、「主の平和」をもって遣わされたはずの私は、平和をここで生かせないことに気づく。無力どころか、自分の内に巣くう悪の力がどれほど剛毅であるかに、恐れおののき縮こまる。シュタイナーが明かした認識の祈りが重く響いてくる。
アウム アーメン
悪が栄えます
くずれていく自我の証しを
人に明かされる己れの罪を
日用の糧の中に見なければなりません
天の意志はどこにも働いていません
人間はあなたの国から離れ
あなたの御名を忘れているのです  
天にいます父たちよ
だからこそ、今の自分の弱さと狡さしか見えないからこそ、願望の祈りを唱えたくなる。
天にまします我らの父よ
御名の尊まれんことを
御国の来たらんことを
御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを  
我らの日用の糧を今日われらに与え給え  
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え  
我らを試みに引き給わざれ  
我らを試みに引き給わざれ  
我らを悪より救い給え  
アーメン  
「人に明かされる己れの罪」は「われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え」に変わった。「己れ」という一人称が、「われら」という複数に増えたのだ。自分個人の内奥にある自我にはもはや自分一人だけがいるのではない。幼い一粒の自我の種は、自ら死ぬことで多へと広がっていく。ここで私のカルマが複数の、共同体のカルマと繋がる。赦されるために、赦すことが行為として生まれる。そのためにこそ、「われらが人に赦す如く」という言葉がその前に加えられたのだ。私が人を赦す、その行為が赦される。そうしてそのことで、われらの罪は解き放たれる。私が人の罪を赦すことができるのは、至聖所に於いてしかない。そこでは償いがすでに先取りの形で完遂されている。キリストの贖いの行為故に。私の償いは時と場を越えて、恩寵となっていく。一が多へと変わるこの祈りの内にエーテル的な共同体を実現する願望がある。
それなら、顕わになって晒されている自分の悪は、何によって変容するのだろう。
復活したキリスト・イエスは「あなたがたを遣わす」と言われたあと、弟子たちに息を吹きかけた。外へ、この世へ赴く前に言葉だけでなく、「息」を贈った。
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:22〜23)
内へと固まろうとする自我が外へと向かう志向性を得られたのは、この息吹なのだと感じる。自我が自我に留まる限り、自らの悪に飲まれ、食い尽くされるしかない。外へと、他者へと向かおうとする働きこそ、父と子から発する聖霊なのだろう。キリストが弁護者とも呼んだ聖霊は個人の自我を突破するために、私を弁護し、赦す行為を赦す働きとなって私の内で呼吸する息となった。
それでも疑問が生まれた。
もし、あのときキリストがバスの中にいたら彼女を行かせただろうか?
キリストは彼女を行かせることはなかっただろう。
けれどまた、彼女の中にいるキリストは彼女をバスから降ろした。
キリストはどちらをも行う。どちらの行為にも然りと告げただろう。聖霊の働きはすべてを包み込むものだから。それを感じとれたとき、私の中でもう一人の私が私を赦した。
2008



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