「色」 の 生 ま れ る と き 

 

遠藤 真理

  
   (2004年7月20日 県発表)
・ 死亡15人・重症1人・軽症1人
・ 建物の全壊22棟・半壊144棟・一部損壊95棟
・ 床上・床下浸水2万5777棟
・ 河川の破堤11ヶ所・堤防破損148ヶ所
・ 農地被害549ヶ所190ヘクタール
・ 被災事業所 三条市1111
・ 現在の避難者数 三条市1285人

ここにひとつの統計上の数字がある。
2004年7・13水害の一週間後に、新潟県災害対策本部がまとめた被災状況である。

三条市で決壊した五十嵐川の真向かいにある、14階のマンションのわが家からは、橋向こうの町が一望に見わたせる。蛇行する川にかかる8つの橋のうち6つまでが遠目で分かる。今回の洪水で被害にあったのは、この橋向こうの五十嵐川南部、古くからの街並だった。目の前にかかる一番新しいアーチ型の昭栄大橋はもっとも高さがあるのだが、その橋のたもとには水たまりというより泥色のプールができていた。そこに救援用のボートが浮かび、雨があがると連なる住宅が水面にくっきりと映っている。町の空き地に広がる平野の緑の田園地帯はどこもかしこも泥水だらけで、まるで泥の湖のなかに家々が屹立しているような錯覚を憶えた。これが前日までの活気のあった町とは信じられないくらい、街には静けさが満ちていた。洪水のあとの静寂さは、市全体をはりつめた空気で覆いつくし、そこへ救急車や消防車、パトカーやヘリが1日中絶えることなく、切り裂くようにサイレンの無機的な音を送りこんでいる。 洪水は人の営みから、生命の気配をことごとく断ちきる。 一瞬にして生活を奪い去られた町からは音が消えていた。

   

水害から2日後、ようやく水が徐々に引きはじめ、川辺の散歩道があらわれると、川岸から流されてきた車が姿をあらわした。少し水位の低まった橋桁には材木や大きなゴミがひっかかっている。8つの橋は全面車輌通行禁止なので、こちら側へ避難していた人たちが徒歩で向こう岸へわたっていく。昭栄大橋をひっきりなしに雨靴にリュックを背負い、家族総出で家路へ向かう。

橋をわたり、対岸の町へ入ったとたん、異臭が鼻をついた。  道路は地面が見えず泥にあふれ、軒並み歩道には泥をかぶった家財道具が出されている。被災した友人宅へ向かうには、低い町の中心にまだ水がたまっているので迂回しながらしか行けない。狭い支線や小路にはいると、臭いはますます強烈になる。ありとあらゆる汚水まみれの家具類や生活用品が家の前に積みあげられ、ゴミが壁のように立ちはだかっている。ちょっと広い道路へ車が入ってきたとたん、あちこちで罵声があがる。被災地へ車で乗りこんでくる無神経さに、住民は憤りをあらわにするしかないのだろう。町全体が刺々しく、騒然としていた。

 

ようやく辿りついた友人のエコロジーショップは、店内のどこから手をつけたらよいのか、まるでわからない有様だった。ショーウインドウに残る汚水のあとから、大人の首の高さまで水が押しよせたのがわかる。靴は滑って役に立たないので、裸足で商品だったものや道具を外へ運びだす。皆、頭から足先まで泥にまみれて黙々と手を動かしていた。店内の泥水を掃きだす作業を手分けしてやるのだが、断水と節水で水はほとんど出ず遅々として進まない。運び出された細かな商品を何度も水洗いしたり、掃きだしの作業であっというまに1日が暮れていく。

さらに2日後、応援にかけつけた数人との作業は商品の水洗いだった。同じ並びの両隣の店舗は、美容院と洋菓子屋である。2件の工場まで水害にあった菓子屋は小さな店舗まで手が回らず、水害から6日目のこの日、やっとシャッターを開けた。そのとき空気に混ざったのはまた別な腐臭だった。久しぶりに晴れたこの日は、埃と塵が空気中に舞い、いろいろなものがごったになった臭いで満ちている。はじめて異臭にもたくさんの種類があるのを知った。  今も24時間体制で水害ゴミと土砂の撤去作業が続いている。  旧三条競馬場にこれまで運びこまれたゴミは、累計で2d車3248台、4d車2169台、10d車706台にのぼり、単純計算しても22,232dのゴミになる。すでに旧競馬場の4割に達し、その量の多さにまったく先の見通しが読みきれない状態だ。

三条市は金物の町である。特に五十嵐川南部、嵐南地域には刃物や作業工具を作る小さな町工場が集まり、9人以下の零細企業が多い。その4割ほどが被災した。ある工具作業所では、工程中の多くのペンチが泥だらけで出荷できず、配電盤や機械すべてに泥水が入り動かない。設備だけで3億円の損害である。また鍛冶の伝統技術をもつ職人も後継者を育てるどころか再建の目途がたたず廃業するしかない。 小泉総理率いる視察団が視察した被災地の刃物メーカー社長が総理に願ったのは、先ずは国への無利子の融資についてだった。冠水の状況や被害説明のあと、こう付け加えている。「足腰の弱った三条市に今回の水害で廃業に追いこまれる工場がふえる。ぜひ国と県の経済的な力添えをお願いしたい。」

被災者生活再建支援法の適用はいち早く決まったが、知事や三条市長が政府に訴えたのは激甚災害指定である。被災者支援法だと、家財道具の購入費などの支給に、例えば、家屋全壊か半壊以上で上限が300万円である。もっとも多い床上・床下浸水など一階部分だけが被害を受けたケースは不適用になる可能性が高い。要請は指定以外にもこの被災者支援法の適用対象範囲の拡大も含んでいた。
 激甚災害指定になると、災害復旧事業の補助率がかさ上げされる。災害復旧の国庫補助としては、6〜8割の河川海岸道路、2分の1〜3分の1の公立学校や公営住宅に1,2割かさ上げされ、中小企業では貸し付けの金利引き下げや信用保証の特別枠、償還期間の延長などが適用されることになる。これによって地場産業がどこまで生きのびられるか、である。

水害の2日後、地元のNPO団体では災害ボランティア組織を立ちあげるため動いていた。そこへいち早く駆けつけてくれたのは神戸震災のとき結成された福井の災害ボランティア組織だった。市長へその独自のノウハウを提言し、市と社会福祉協議会とともに翌日には総合福祉センター内に三条災害ボランティアセンターが設立された。ボランティア受け付けとニーズ、苦情受け付け、総務と各班に分かれて機能的に動いていくつながりは経験に裏打ちされた確かさがあった。参加者のほとんどは仕事の合間、あるいは仕事を返上しての活動である。 受話器を置くとすぐに次の電話がかかってくる。ひっきりなしに応対していると、組織や全体としての人間ではなく、一人ひとりの生の声が聞こえてくる。こちら側が考えつきもしなかった手助けや方法、県外からの多くの援助。被災後の週末3日間で3000人ほどのボランティアがかけつけた。

汚泥にまみれた町を歩いていると、不思議な感覚にときどき出会った。 目の前が靄がかかったようにぼんやりとしてきて、濁流の曇りのような、光が遮られた感覚が襲ってくる。幾人かから同じような視覚の戸惑いを聞いた。町全体が生々しく記憶しているエーテル界のイメージだったのだろう。

こうして思うのは、先に記した統計を見て、どれだけのことをそこから私たちは想像できるのだろう。

実際に身近に体験したからこそその悲惨な実情がわかるだけで、もし遠く離れた土地での災害だったら、それは新聞やTVで流される数行、ヒトコマのニュースに過ぎないのではないか。ボランティアで現地入りするのは他人事ではないという共感の心情はもちろんだが、枯渇しそうな想像力を奮いたたせる方法でもあるのではないか。町や建物、土や泥や石、水や空気がここで起った出来事を丸ごとその体に刻んでいるほどに、人間は他の存在を留めておくことすらできていない。ただ確かなのは自分という枠のなかの痛みだけで、それは依然として身体に閉じこめられている。脆弱な自我は痛みを乗りこえることも、他人の苦痛に共鳴し共有することも、外が即内であると転換することもできないでいる。外界が内側であるなら、自分の内面はどんなに醜悪であることだろう。それを敢えて見る勇気は誰も持ちあわせていないのではないか。

シュタイナーの常套句「汝自身を知れ」そして「自己認識」は、こんな自分を見つめていても何も出てこない。他者と接し、モノや情報を用い、毎日起こる出来事といった自分以外のものから撥ねかえってきた残像や手痛いしっぺ返しからしか「自分」は見えてこないはずだ。どんなに理想的イメージを自分に振りかざしてみても、周りに起こる諍いや対立や反応から映じてきたものが、等身大の自分の姿である。それを素直に認められるほど人は利口ではない。

統計数字からもしもイマジネーションを働かせることができたら、シュタイナーの語る「生活のなかの美」はどこからでも見出すことができるだろう。 生活道具を失うというのは、明日から着る下着やお気に入りの服がないということであり、パソコンに入力した大事な情報すべてが一瞬にして消えるということであり、コレクションの本も高価な化粧セットもブランドもののバッグもなくし、思い出のつまったアルバムも子どもの成長記録を撮ったビデオも失うということである。避難所暮らしというのは、プライベートな時間がもてないということであり、夜中に話し声で起こされることである。泥水に浸かった家財道具を片付けるというのは、濡れて100kにもなった一枚の畳を大の大人が5人がかりで運びだすことである。家屋の掃除をするというのは、畳を上げ板を剥がし床下に潜りこんで、角スコップは使えないので両手のゴム手袋で僅かずつ泥をかきだすことである。想像しても、想像してもイマジネーションは尽きることがない。

敢えて言えば、イマジネーション認識は、崇高で壮麗な、美的霊的世界を思い描くことよりも、目の前で生起している出来事や事件にどこまで自分の認識の力を(覚醒して)こめることができるかでもある。むしろその力で不正や悪の世界に目を瞑らず、イマジネーションを働かせたまま入っていけるかが問われているのだろう。そこでは神聖さや善や美に対するのと、悲痛さや悪や醜に対するのとは同等の視線である。そうしたとき初めて、悪や醜のなかから光を引きだすことができるのかもしれない。

高橋巌氏が今回(2004年7月18日・新潟市)「シュタイナーの芸術観」の講演の中で紹介された『シュタイナーコレクション7・芸術の贈りもの』(高橋巌訳・筑摩書房)に収められている、「新しい美学の父ゲーテ」(1888年)「それぞれの芸術の本質」(1909年)「芸術心理学」(1921年)は、それぞれシュタイナー、27歳、48歳、60歳のときの講演録である。「新しい美学〜」は哲学的態度での、「それぞれの〜」は芸術的態度での、「芸術心理学」は人生そのものに向き合った態度の芸術論だと言及している。その「芸術心理学」で、「最大の現実課題」とされているのは、詩的で音楽的なものと彫塑的で構築的なものとのあいだにある内的な体験を、外側である世界の中へともちこむことである。それが「自由の体験」とも結びついているという。人が自由であると言えるには、感覚の世界に足をおきつつも溺れることなく、自分の魂的な力をそこへ注ぎこむことができたときである。そのとき生活自体が芸術的な美で満たされる。

「芸術家よ、創れ、語るな」というゲーテのことばをシュタイナーはこう言い換える。「創りつつ語り、語りつつ創れ」。 それはたとえば、被災した人たちを助けたいという意志が、悲惨な状況や汚濁にまみれた家を手伝わなければならない、という自分以外の外的な拘束力によって縛られたり、反対に、相手の自由という領土範囲に土足で踏みこまないのが懸命だとすることで行為から逃れるいい訳めいた「語り」とはまるで異なる。感覚的な対象がかりに表現手段に過ぎないとしても、感覚を超えたものをどこからか美として下ろしてくるのではなく、現実の世界で知覚され体験されたものを「いかに」、どうやって表すかが問題なのだ。その表れにこそ「プレグナントな点」である美が潜んでいるのだと感じる。そしてそれが「創る」ことでもあるのだろう。

行為自体をとりだしてきて、それが善いか悪いか判断をくだすことが無意味なのは、外側にある道徳規範から行動する虚構と同じである。そこでは自分が「神の目」の立場にもちあげられ、セーフガードで守られているか、道徳ロボットとして思考を働かせないですむかの違いがあるだけだ。被災地の映像を観賞しながら、行為自体に優劣をつけることはできない。もしボランティアという行為に意味があるとしたら、それは一人ひとりの自由からのみ発した行為を、ただ当人が善いと認めるからなのだ。ここに、道徳(意志)と真理(思考)と芸術(感情)とがひとつの根っこだとするシュタイナーの芸術観の根拠がある。

水害後、2度目に行った友人のエコロジーショップでは、何個もバケツを用意してどこからともなく集まった仲間が商品を洗濯していた。 ジュートの草履に羊毛の刺繍入りバッグ、のれんにエプロンにスカート。ペンホルダーに純毛の上着、タイシルクのスカーフにTシャツ、そしてたくさんのインドやインドネシアの大判のカバー。それらを店先へ干すと、色とりどりのエスニック柄ばかりで、まるで難民キャンプのようだと皆の声が弾んだ。休憩しながら、陽を浴びて風にはためく色鮮やかな木綿を見ていた。そこだけくっきりと世界が異なっている。 そのとき、ふいに、「色」が何であるかが分かった。 かけつけた最初の日、途方にくれながらわずかしか出ない水道水を泥だらけのビンにかけたときの感覚がわいてくる。ビンから際やかなオレンジのラベルが現れた。その色を見つけたとき、こころのなかで何かが動いた。それは、色のない世界から突然色彩が生まれ、閉じこめられていたオレンジが救いだされ、呼吸しはじめた瞬間だった。

シュタイナーの「芸術観」のなかで、メルクリウス(ヘルメス)の杖の色彩のメディテーションが紹介された。その最初の黒はまったくの闇である。原初の漆黒の闇、そこへ光が現れると紫となる。つぎに紺となり、青となり、緑となり、黄、オレンジ、赤へと展開していく。色彩がめくるめくように現れてくるとき、人は自分の内面も動いていくのを体験できる。色とは、私たちにとって理解できる次元のことであり、同時にそれは内面であり、感情でもあるのだ。オレンジ色のラベルや鮮やかな洗濯物を見て動いたのは、私の個人的な内面の感情だった。沈んでいた内で生まれた一瞬の喜びと色彩とは同じものであり、色とは「世界」のことだったのだ。

けれど、色の故郷が闇であるのもまた確かである。深淵であり、泥のような、何もかも呑みこんでしまう黒は、思考も感情も意志も働かないゆえに畏ろしい。すべてを濁流のようにおし流し、ひとつの「暗黒」という、音も色も封じこめる空(くう)あるいはカオス。それが動くのは内に射す光の一点からだけなのだ。その点を闇にあいた光の穴とイメージすることもできる。針の先ほどの一点に過ぎない光が、少しずつ空間をひろげ、光度を増し、色彩を生みだしていった先端に、私たちのこの世界があるのかもしれない。「黒」は種子として光を内に宿し、自らの身体である闇を光に蝕まれながら、光の子である色彩を生みおとしていく。その最初の光の一点――それがプレグナントな点だとしたら、美そのもの、絶対的な美の住処は、ここではなく、闇の身体のなかに求められるはずである。だから、たくさんの美的な現れを見て、美しいと感じる感情を抱くとき、私たちは感覚を超えた世界を体験しているのだと言える。

『芸術の贈りもの』のなかの「感覚的=超感覚的なものと芸術によるその実現」にはこう記されている。

いつもの物質存在が、いつもの日常生活の中で、いわば魔法にかけられたかのように、一種の超感覚的な性質を現すとき、それを美しいと感じるのです。

それはまた『魂のこよみ』のマントラとも呼応してくる。

私は魔法にかけられたように、万象の輝きの中で、霊のいとなみを感じる。 それがうつろな感覚の中で私を包み込み、私の存在に力をさずける。(7月14日〜20日)

ここで、日常的なものから輝き(光)を見つけることが、美を体験することであり、満ち満ちて、孕んでいること(プレグナント)なのであり、それを宿す生命の源である「闇」から、力は注がれてくるのだろう。





著者: 新潟県三条市在住
「新潟シュタイナー通信 ティンクトゥーラ・虹」(2004年vol.27)より転載
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