プロフィール


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自己紹介

名前 Ken
生年月日 1960年3月20日
血液型 AB型
家族 妻 Yuko
職業 主夫 兼業パチプロ
趣味 パソコン(いつまでたっても初心者^^;)


パチンコとの出会い

あれはたしか、小学校へ入る前、おやじに連れられてパチンコ屋に行ったのが最初。当時は当然手打ち式でおやじはうまいこと玉を打ち出していた。その手際の良さと、チューリップに入ったときの払い出しの音「チーン、ジャラジャラ」なにか哀愁が漂う音だと思うのは私だけでしょうか。私の方はといえばパチンコ台の横についていたボタンに興味を持ち何気なしに押してみた。押してから気がついたのだが、これは玉詰まりしたときに店員を呼ぶボタンだと。何かすごく恐くなってその場から逃げ出したのを覚えている。(当時店員はパチンコ台とパチンコ台の間にいて、台の上から顔を出し客の要求に答えていた。私には、それがまるでお化けのように思えたのだ)



それから十数年の時はたち、無難に学生生活をおくっていたある日、田舎から弟が遊びにやってきたので,この際だということでパチンコ屋に連れていってもらうことにした。玉の借り方から打ち方(どこをねらうのか)そして、景品の交換の仕方まで弟に教えてもらったわけである。当時は電動チューリップ台が中心で手打ちはほとんど消えていた。そしてかの有名な太陽フィーバーの出だしのころだったと思う。

パチンコ初日私はチューリップ台であれこれしていたら弟が、「兄き、これ」と言ってダンボール箱に入った山ほどの景品を持ってきたのである。その間わずか15分ほど。その時はフィーバーのフィの字も知らなかったのでなにが何やらわけが分からずにいた。ただ一つ強く思ったこと。「そんな博打みたいなもん俺は絶対やらへんでー。」そんなわけで、多分その日は2,3千円勝ったかと思う。うれしかったなあ。そしてなによりもこれから一人でパチンコ屋へ行けるようになったのがうれしかった。
その後しばらく、チューリップ台で、勝っても負けても数千円という日がつづいていた。ただ同じパチンコをするならアルバイト代くらい出なければ意味がないと思い当時から収支をつけていたのだがそこで一つ気づいたことがある。それは不思議と収支に波があるということ、私の場合プラス1万まで行くと必ずマイナスに向かいマイナス1万まで行くと今度はプラスに向かい結局プラマイ1万の幅の中で動いているということだった。

これは実に不思議なことで、二つの思い「パチンコは結局時間の無駄なのかもしれない」、「パチンコは長い目で見るとチャラに収まるのだ」、が自分の心の中で大勢を占めるようになっていった。ところがこの考えは大きなまちがいであったとはこの時には気づかないでいたのである。


あれーおかしいなあ

時は大学の4回生。学業もわりと暇になり、家庭教師やその他のアルバイトや仕送り等で時間とお金のあった私はしらずしらずあの博打台、フィーバーやブラボーに手を染めていったのである。一撃1万は魅力であった。

ところが収支はというと、4月マイナス5万、5月マイナス5万、「あれー、おかしいなあ。そろそろ上向きになってもよさそうなのになあ。まあどうせもどってくるやろ。」
しかし、6月マイナス10万!「ヤバイこれは戻ってこない!自分勝手な思い込みで、一生取り返すことの出来ない負債を負ってしまった。パチンコごときに。」という後悔の念にさいなまれ以後しばらくパチンコから遠ざかっていた。



帰死回生のゼロタイガー

そして、数ヶ月後、繁華街で久久に入ったパチンコ屋で偶然にも羽物ゼロタイガーを終了させたのである。
その時ある攻略法?を発見してしまった。それは、よく観察していると、次から次へと客がつきほとんどの台は、すぐにかかり500個(上下満タン)くらいは出るのにこれまたほとんどの台がのまれて終わるのである。(繁華街特有の出方)自分の場合もそうだった。
打ち始めはすぐにかかるのだがやはりのまれる。どこが違うのだろうかと考えると、うちはじめは台が軽い状態であり、かかった後は上皿.、下皿に玉が入り重くなるからではないかということだった。(当時は台を安定させるために出来るだけ玉を詰めるのが一般に正しい打ち方とされていた。)そこでためしに、出玉を全部抜いて200円分位だけ入れて打ってみるとこれが不思議なくらいかかったのである。そして殆どスランプもなく終了(3000個)できるのであった。これに気づいてからは、日曜日を除き(最初何回か日曜日も行ったが今にして思えば釘がしまっていたのだろう、日曜日は勝てなかった)毎日電車で通い続け毎日のように投資1000円以内で1台半終了させ(12000円位)勝ち続けた。1時から5時くらいで。
そして、1ヶ月半後にはフィーバーの負債を帳消しにし、なお且つ5万位勝っていたのである。
その日は寮の後輩達がその店にやって来ていて、スナックで(パブではなく)祝杯をあげたのはいうまでもない。私の奢りで。
それ以後、地元の店の羽物でそこそこ遊び代くらいは稼いでいたが決して遊び代の域をでなかった。



稼ぎ出したきっかけ

これはもう理由はひとつ。お金が必要になったから。なぜかというと引越しをしなければならなくなったのと仕送りがなくなったからである。さすがに5回生にもなって仕送りをしてもらうわけにもいかなかった。ちなみに私は休学も入れて8年間、学生をやっていました。一応卒業はできましたけど、すでに社会のアウトロー決定でした。(笑)そして、生活費は殆どパチンコ(羽物)で稼いでいました。当時の羽物はおもしろかったですよ。今と違いすべてアナログでしたから、人間的だったように思います。後にガイドの田山さんのパターン認識論など知りましたが当時、勝っていた人は殆ど同じ感覚を持っていたと思います。今の若い人には理解できないようですが…


大学を卒業後

何とか卒業できたのは今のカミさんに出会ったおかげです。私自身は辞めるつもりでしたから。一応感謝しています。
さてその後、結婚もし、小学校の先生や各種営業、MLM、サラリーマンなどをして数年間は社会復帰を目指してみましたがやはり無理だったようです。(笑)
その間パチンコは遊び程度にやってました。収支はチャラかややマイナスだと思います。



パチプロとして生きていけるかな

忘れもしない1994年3月1日。
仕事を辞め、全財産3万円(自分の小遣い)からのスタート!といっても負けたら仕事さがそうと思っていた。ところが偶然にもビッグボンバー?で(連荘羽物。ちょっと名前は忘れました)5万も勝ってしまったのです。
予断ですが今までも何回か、これで最後かという時には不思議と助けられて来たような気がします。
それでも当然、仕事さがそうと思っていた。そして、月に30万いかなかったら辞めようと思っていたが、ところがその月は目標クリア、今に続いているわけである。



1994年
主に稼いだのは完全アナログの羽物OL娘。釘、関係なしの殆どパターン認識?のみで終了回数半年で241回。まあ当時NS店はよく出していました。今は見る影もないが。
8月に始めて50万の大台に乗った時はさすがにうれしかった。昼の1時にもかかわらずそそくさと帰りました。しかし、翌日翌々日と9月に入っていきなり9万の負債を抱えてしまい、それ以後あまり金額にはこだわらないようにしてます。あくまで結果だと。



1995年
2年目のスランプ(収支と精神面)に苦しんだが生活費だけは何とか確保。羽物は死に、時代はCRへ。
1月2月とマイナス収支、パチンコをするのがいやになってました。データを付けるのもいやになってて残ってません。でも後になってこの時のデータほど貴重なものはなかったんだなと思ってます。非常に残念です。その時の精神状態がわかりよい反省点になりますから。
また、7月8月9月合わせて収支30万チョイしかなく5ヶ月で20万くらいだったのに残りの7ヶ月でそれなりの結果が出せたのも自信につながりました。



1996年
データ付けのためにパソコンを買いデータをつけだす。おおざっぱだが年間ツキはマイナス100以上
確率は収束するのか、ツキも年間なら0位に落ち着くのか、台との相性はないのか等と考え、始めたのがきっかけでした。異論もあろうかと思いますが、今のところ私の考えは少し乱暴ですが、確率もツキも収束しない。台との相性はある。と考えています。そう考えた方が精神衛生上良いという結論に達しました。収束したらラッキーだと。最初は収束するもんだと思い打っていたので打っても打っても収束しない機種に出くわした時は滅茶苦茶腹を立ててましたから。(^^)



1997年
打つスタイルを変えた。(日曜休み、時間で止める。等)
HP開設



最後まで読んでくださった皆様ありがとうございました。出来るだけ正確に書いたつもりですが、もしかしたら機種名等勘違いしてる部分があるかもしれません。収束等についてはぜひみなさんのご意見もお聞かせ願えたらと思います。

(↑1997年10月記)

1998年(12月27日 記)

MO店一店のジグマと化する。何がどう影響したのか(多分にインタネ効果)、過去最高の収支を上げる事ができた。
また、今年は二人の祖父が他界したり○○も逝ってしまうなど悲しい事もあった。が、それはさておき

7月 大阪オフ会テトラさんくまさん隊長君桃太郎さん
8月 東京集会ゆきだるまさんあるじさんテトラさん隊長君
10月 大阪オフ会パートU銀玉ママさん桃太郎さんくまさん隊長君
11月 パチプロオフ会JUKUYAさんy-nakaoさんTakaさんTatsuさんKTさん与太郎さんワイズマンさんShinさんHi!noさん
12月忘年会桃太郎さん岸本さんキル君銀玉ママさんくまさん隊長君
とインタネを通じていろいろな人達と顔見知りになれたのがこの上もなく嬉しい出来事でした。。。この場を借りてお礼申し上げます m(__)m

あらためて良い年だったな〜(しみじみ)
来年はもうちょっと主夫もしないとね (爆)

1999年(12月29日 記)

MO店も8月以後めっきり渋くなった。仕事量が50万行くような時期はもう来ないだろう。ま、今まで(この2年)が良すぎたんだと思うし。。ところで、来年300は行けるのだろうか?

9戦して9敗だったサンダースケルトン。年末のアイスパラダイスと言い、よほど相性が悪いのか?>マルホン セクシーショットは良かったけど^^;

あっ!、弟子ができたのを忘れるとこだった(笑)


2000年(2001年1月3日 記)

2月には殆ど「あっぱれ応援団S2」一本で過去最高月間ツキ(+77)を記録したり、5月には山寺日記で「札が取れた時の負け無し」を維持し続けるなど、ツキまくった感のある一年だった。その勢いで11月半ばには+220に達していた今年のツキだが、同じ台でツキ続ける事にはある意味プレッシャーに感じる事も多かった。結局、収支が出るから打つし、打てば収支が出る(つまりツイている)という繰り返しだったにすぎないと思うが。。その後わんぱらで失速したのが少し残念。なんとなく、本厄スタートの新世紀を暗示するようで(笑)

それはともかく、一番苦しかったのは夏場の2ヶ月に及ぶリニューアル休業中だった事に違いはない。「打つ店が無い、打つ台が無い」の苦しさは・・・・・

秋に家を買った。