椋橋総社
椋橋(くらはし)総社

この神社は別名鯉神社とも呼ばれており鯉にまつわる伝説のある古いお宮さんです
また、   「秋まつり」の太鼓巡行も賑やかで、伝統行事をしっかり保存されています。






  • 鯉伝説のある神社  ’捕らない、食べない、いじめない!

    椋橋総社は、鯉づくしの神社
     豊中市庄内、庄本の辺りは、その昔、「椋橋ノ荘」と呼ばれていました。東に神 崎川、西に猪名川が流れ、風光明美だったこの地は、かつて、貿易港として栄え、 周りには船問屋や船宿が並び、税関もあったようです。その荘の中心になっていたの が椋橋総社。別名、鯉の宮とされ、社殿には鯉塚、境内には鯉池があり、社殿のある 場所を鯉が坪と呼び、鯉にまつわる神話や伝説がある神社として親しまれています。

    ミコトは、鯉に乗って降臨した
     北摂には、素盞鳴尊をまつる神社が多く、椋橋総社もそのひとつです。言い伝え では、「遠き神代のころ、素盞鳴尊が高天原より鯉に乗り、神前の水門(現在の神 崎川)を経て、降りて来た」と伝えられている。社殿には、鯉に乗ったたくましい素盞鳴尊をダ イナミックに描いた木版画もあります。

    鯉が集まって、築いた魚橋
     ここには、奈良・東大寺の大仏造営で知られる、僧・行基(六六八―七四九)と鯉 にまつわる伝説もあります。行基は、当時、諸国を巡遊し、池堤の設置、寺院の建 立、道路の開拓、橋の架設などを行い、それぞれの地域で、人々のために尽くしてい たようです。彼がこの地を訪れたときのことー―そのころ、椋橋ノ荘は湿地帯で、 州や入り江が多く、人々はたいへん困っていました。それを知った行基は、猪名川 に板橋を架けて、少しでも人々の便を図ろうと考えたのです。ところが、流れが 速くてなかなかうまくいきません。困り果てた行基が椋橋総社にお祈りすると、 どこからともなく、たくさんの鯉が集まって来て、魚橋をつくったため、見事に架橋 が完成したとか。また、一説には、行基が来たとき、猪名川が大洪水となり、禮水橋 が流されてしまいました。人々は、船いかだを組んで、何とか迎えようとしました が、うまくいきません。そこへ、突然、鯉が群れをなし、背を連ねて橋をつくり、行 基を無事に渡したともいわれています。

    今も昔も、鯉を食ベない風習
     行基は、神が鯉を遣わされて、助けられたものと感謝し、それ以来、椋橋ノ荘内に おいて鯉を捕ったり、これを食べることを禁じました。その風習は現在でも続け られ、人々は、鯉を大切にしているそうです。弱っていたり、捕らえてしまった鯉 は鯉池に放ち、死んだ鯉は鯉塚にまつり、もちろん、鯉は口にしないといわれます。


    もっともっと、自然を大切に
     古来から、人間は、いろいろな自然物を神とあがめ、大切にしてきました。これ も、自然保護のひとつではないでしょうか。自然から与えられるものには、私た ち人間にとって欠かせないものがたくさんあります。自然とずっと同居していく うえで、自然への感謝とともに自然を大切にする気持ちを持ちたいものですね。
    この資料は庄本町に在住の森本さん、中山さんから いただきました。貴重な資料をありがとうございました。

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