死んだ者を生き返す。
古代から最大の秘術とされ、各時代の最高の知識人たちが追い求めたきた技術。
現在でも、大国では自らを冷凍保存し、遺伝子技術が発達した時代に再び解凍して生活を始めることを夢見た人たちが、
実際にその冷凍技術によって保存されています。
「蘇生」を語る前に、まず、「死」と言う概念について、確認しましょう。
現在の日本の法律では、死んだと判断される条件が二つあります。
一つは心臓死。
一般的に、心臓が止まれば、各細胞に供給される血液、酸素、そして栄養が不足し、エネルギー源を無くした細胞は死亡します。
法律では広く、この心臓死を人間の死と定め、この時点で様々な法的保護や法的拘束は無効となります。
もう一つは脳死。
脳が死亡することによって、(心臓が動いているために)生存はしているが、あらゆる行動が出来なくなる。
例外を除いて、法律ではこの時点では人間の死とは定めておらず、法的保護や法的拘束は有効なままです。
ところが、古代においては、たとえ心臓死でなく、脳死の状態であったとしても、その個人は間もなく心臓死に至った事でしょう。
現在のように優れた医療技術がない古代において、延命という行為が不可能なのは瞭然であると思います。
さて、死という概念を確認したところで、本題に戻ろうと思います。
死者蘇生は可能なのか?
結論から言うと「No」であり「Yes」であります。
まずは、「No」から考えたいと思います。
多くの人は、死者蘇生と聞いて、まずイエス・キリストを思い浮かべるでしょう。
断っておきますが、私は一切の宗教、ましてやキリスト教を否定するようなことはまったくありませんのでご了承ください。
現在イタリアで、イエス・キリストは実在しなかったなどと言う裁判が行われていますが、実在していようがしていまいが、この際関係はありません。
「死者は生き返らない」のです。
ではキリストはどうなのか?作り話なのか?
おそらく史実に多少の色が付け加えられた程度のものだと私は思います。
キリストがカルヴァリアで十字架にかけられたとき、実は周りの兵士は、誰もキリストを殺しませんでした。
当時の処刑は、「十字架に磔にして、当人が衰弱死するのを待つ」のが普通でした。
有名なロンギヌスが槍でキリストのわき腹を突き刺したとき、突き刺した場所から血が吹き出ました。
磔にされて、しばらくして日が暮れてから、キリストは水代わりに差し出されたワインを飲み、そして頭を垂れたのです。
その後、もう死んでいるのは明らかだが、念のために槍で突き刺したのです。
念のために突き刺したのですから、それ一撃で致命傷になるような攻撃ではなかったと思われます。
そして注目すべきは「血が噴出した」事。
動物は死んでしまえば、その身体を傷つけても血は出ません。
心臓が動いているから、血液に圧力がかかり、傷つけられた場所から血が出るのです。
心臓が止まっていれば、血が吹き出ることはありません。
つまり、この時点でキリストは生きていたのです。(血が出てきたことに驚いた兵士は、このあと呆然とするだけで、何もしませんでした)
この3日後に、キリストは復活を遂げます。
が、十字架で死んだという証拠はどこにもありません。
せいぜい、ワインに薬物が入っていて気絶した程度でしょう。
キリストが気絶したときは日が暮れていたため、顔色などを見ることは出来ませんでした。
つまり、周りの人は兵士も含めて(おそらく弟子は除いて)死んだと思い込んでいただけなのです。
ただ、それでも当時の人(現在もですが)からすれば、死んだ(と信じていた)人間が生き返れば、それは奇跡です。
さて、次は「Yes」についてです。
実は、生物が完全に死亡するまで、心臓が止まってから少しの時間の余裕があります。
心臓が止まり、酸素と栄養が細胞に行き渡らなくなり、完全に細胞が死んでしまうまでの間に、もう一度心臓を動かしてやればよいのです。
自動車教習所などで習った応急処置、すなわち心肺蘇生がその方法です。
心肺蘇生で死から蘇ったという話は、星の数ほどあるでしょうし、古代においても心肺蘇生術が一部の賢人のあいだで伝わっていたことは明らかです。
(旧約聖書で、聖人エリヤが少年を生き返したエピソードは有名でしょうし、当時そのようなことは一部知識人の間で数多くあったと推察されます)
これは古代において、まさしく奇跡でした。
現在でも、死んだと思っていた人が、御通夜中に突然起きだしたなどという話があるぐらいです。
これも、完全に死に至る前に、何かのきっかけで心臓が再び動き出したから起こりえた奇跡だと言えるでしょう。