23番 宝積山(ほうしゃくざん) 能福寺(のうふくじ)

【参拝日】2006122日 【場 所】〒652-0837 兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39
【交 通】JR山陽本線「兵庫」駅で下車し、南に20m程歩くと、国道2号線の「兵庫駅南」交差点に出る。地下道を通り、左折し
    国道2号線に沿って北東方向に歩き、1つ目信号のある「浜崎通」交差点を右折し、南下し、「入江通2」交差点を左
    折し、2つ目の信号のある交差点を左折し、20m程度歩くと左手が現地。
【車】阪神高速道路「柳原」ランプを出て、国道2号線で「浜崎通」交差点を南へ入り、直ぐ次の「入江通2」交差点を左折し、
   2つ目の信号のある交差点を左折し、20m程度で目的地。駐車場は無いので、寺の前の道路に路上駐車すすしかない。
【拝観料金】無料
【拝観時間】9:001700
【電 話】078-652-1715
【宿 泊】なし
【主な行事】118日:初観音会、3月春分の日:春彼岸会、59日〜10日:兵庫大仏まつり、816日:盂蘭盆会、9月秋分の日:秋彼岸会、1115日:十夜法要
【宗 派】天台宗 将軍平清盛公菩薩処
【本 尊】十一面観世音菩薩
【開 基】伝教大師最澄
【創 建】延暦24年(805年)
【御詠歌】ただ法(のり)の 宝を積みて はるばると 運ぶ歩みの 楽しかりけり
【解 説】 道路に面した正面入り口から、大きな「兵庫大仏(写真1)」の姿が飛び込んで来る。これとは対照的に、入り口左側に壊れた鐘楼の土台の上に雨ざらしで置かれた鐘が印象的であった。このお寺は、能福寺としてよりも「兵庫大仏」としての方が良く知られている。この兵庫大仏は、日本3大仏の1つで、奈良東大寺の大仏(身丈14.85m)、鎌倉長谷寺の大仏(身丈11.5m)についで、身丈11.0m、台座の高さ7m、重さ60トン、総工費約5億円で平成31991年)年5月に再建されたものである。この兵庫大仏の初代は、明治24年(1891年)に豪商南条荘兵衛によって建立が、戦争末期の昭和19年(1944年)に金属回収の為に解体され、昭和20年(1945年)には神戸大空襲によって、伽藍が全焼した。その後、ご住職の雲井世雄師、多数の檀徒、企業等の熱意で、平成35月に再建された。この再建を記念して、59日〜10日には「兵庫大仏まつり」が行われている。
 境内の左手前に「瀧善三郎正信慰霊碑」があり、立て札には『慶応4年(1868111日 神戸事件の犠牲者 備前藩士 瀧善三郎正信顕彰碑』と書かれている。慶応4年(1868年)111日に、西宮警備の命を受けた備前藩士の行列を外国人が横切ったため、この外国人を傷つけてしまったのが発端となり、神戸事件として、国際問題になった。備前藩では、各国の代表者を立ち合わせて、瀧善三郎正信を責任者として切腹させ、この事件を解決させた。市民が瀧善三郎正信をこの事件の犠牲者と哀れんで、慰霊碑を建てたといわれている。
 大仏の左手前に、「平清盛の墓」がある。ここの立て札に『平清盛公墓所 八棟寺殿 平相国廟 平安の末期(養和元年西暦1181)平清盛公の死去によって能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に公の墓所平相国廟が造立されたと云う。しかし平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。以後廟は再建されることなくその存在すら忘れ去られていた。百余年後の弘安9年(12862月、平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公は、その近くに一基の石塔を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。現在に伝わる清盛塚十三塔(県指定重文)がそれである。今、諸々の古記録文献には「京・愛宕山にて火葬荼毘に付し国宝法眼全骨を福原に持ち帰り経ヶ島に納め・・・・」(又は)「大輪田の法華堂に納め・・・」(又は)「能福寺の北東に埋骨・・・」云々とあるところから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言に依り全骨を福原に持ち帰ったことが史実ならば、歴史上、真の墓は、かつて平安末期、能福寺々領内にあった平相国廟と考えられる。奇しくも本年清盛公の800回大遠忌を迎えるにあたり平家物語類書にも有名な平相国廟を建立復興し、併せて国宝法眼宝篋印塔、忠快法印塔を合祠した。現在わが国最大の国際貿易港として、繁栄せる神戸港湾の基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。願わくば日本の国土と民衆を兵庫県民を神戸市民を守護したまえ。昭和552月 能福寺第24世貫主 弘善識 』と書かれている。
 大仏の北に「本堂(写真2)」があり、これは平成7年(1995年)の阪神大震災で倒壊したが、平成12年(2000年)に再建された。元の「本堂」は、京都東山の月輪御陵にあった「月輪影殿」を昭和28年(1953年)に宮内庁と九条家から拝領して移築したものである。 本堂の前に、「北風正造君顕彰碑」がある。ここの立て札に、『兵庫の豪商 北風正造君顕彰碑 兵庫廻船問屋兵庫新川開発の発起人 明治元年、鳥羽、伏見の戦の時、有栖川宮が東征総督として征途につかれた際、駿馬と三千両を軍に献上し、又、姫路藩が官軍の攻撃を受けて城下町が戦場になろうとした時、彼が仲裁に入り、軍需金十五万両と引きかえに紛争を解決させたという巨人。現在日本一のお城、白鷺城が無傷で現存するのは、この人のお陰である。明治元年三月、兵庫新川の開発事業に関係し、米商会所、第七十三国立銀行等を創立し、その頭取となったほか、神戸製茶改良会社、神戸船橋会社の創立など、実業界にも貢献した兵庫きっての豪商であり、神戸発展の功労者である。明治二十八年十二月五日没。六十二才。当能福寺檀徒。此の碑の文字は伊藤博文の揮毫にして明治二十九年兵庫県知事周布公平が建立した。』と書かれている。
 その横に、「ジョセフ・ヒコの英文碑」がある。ここにも立て札があり、『わが国の新聞の父として米国リンカーン大統領と握手した唯一の日本人として下田の港で開国を迫ったぺルリ提督の通訳として有名なジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の手になる英文である。神戸港に着いた外人客が神戸のマスコットであった「兵庫大仏」に多数参拝に来るところから能福寺第十九世住職 加藤慈晃師がジョセフ・ヒコに依頼して寺の縁起を英文で作ったものがこの碑である。(明治二十五年頃)わが国最初の英文碑といわれている。』と書かれている。

写真をクリックすると大きくなります

P1020951.jpg

(1)兵庫大仏

P1020965.jpg

(6)本堂