川辺地域の歴史

私たちの暮らす川辺は大阪の中でも特異な位置を占める歴史のふるさとであり、地元の郷土意識も高く、歴史や伝統の保存に力を尽くしている地域です。
そこで、このページでは川辺地域の歴史的変遷を紹介したいと思います。

★縄文時代(6000年前)
縄文時代の大阪は、生駒山地、上町台地に挟まれた河内湾(ちぬの海)があり、その河内湾に大和川や淀川、西よけ川が流れ込んでいました。川辺地域は、東よけ川が河内湾に流れ込む場所であり、魚を採ったり、猟をしたりする場として適しており、人々が生活していました。その生活のあとが長原遺跡群として発掘されています。

★弥生時代(3000年前)
弥生時代には、河内湖も大和川の運ぶ土砂により、埋め立てられてきましたが、川辺地域は、洪水の被害を受けない場所として、村が作られ、田畑を営んで生活していました。その生活のあとが、川辺遺跡として発掘 され、歴史資料館に保存されています。 

★古墳時代(1500年前)
古墳時代には、村も発展し、豪族もあらわれ、大きな墓を作ることが盛んになりました。川辺地域は、その古墳あともたくさん発見され、長原古墳群となっています。また、水上交通も盛んで、舟形埴輪や大きな荷物を運ぶ修羅も発掘されました。

★南北朝時代(600年前)
南北朝時代、川辺地域は、大和川と東よけ川に挟まれた地域として羽曳野方面から大阪(なにわ)に出る交通の要所として、重要な拠点となっていました。そこで羽曳野地方を治めていた楠木正成は、この地域に巽城を築き、足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒しました。しかし、その後、後醍醐天皇の率いる南朝側につき、北朝側の足利尊氏と争いました。そのなごりが川辺神社(八幡宮)や六反地域の赤坂神社、 長吉城山という地名で残っています。

★江戸時代(300年前)

1703年大和川の付け替え工事が行われました。計画は数回行われ、川辺地域が予定として含まれると村をあげて反対しました。
反対の理由 としては、
・大和川は、天井川であり水を引きにくい。
・大和川は、よく氾濫を起こす川で、洪水が起こる。
・村と田畑が分断され、田畑の仕事に行けない。
・大和川をつけかえることで、田畑が少なくなる等でした。
しかし、結果は工事がすすめられ、川辺村は、大和川によって川の北に 村があり、南に田畑があるという不便を強いられました。また、洪水に合わない村だったのが、大和川ができたため、たびたび洪水になり、川辺神社も何回も壊れることがありました。大和川の水量が増すと、付け替えした東よけ川に水が逆流し、南側の田畑は幾度も洪水に合いました。大和川の付け替え工事によって削られた田畑については、東よけ川を埋め立ててできた田畑を代わりにもらいました。現在の川辺小学校から、出戸駅に向かう地域です。その地域は、荒地であり、稲作に向かないので、綿や桑を栽培するようになりました。それが河内木綿の始まりで、平野区の花になっています。しかし、川辺村は、南北をつなぐ交通の要所であったため、大和川の 水量が増し、川止めとなった時には、宿となったり、店もできたりして発展 してきました。また、川辺に船着場があったため、堺から船もやってきて、人や荷物の往来も盛んになりました。川辺に商店が多かったのは、そのためです。

★明治時代
1871年(明治4年)になると、天領であった川辺村は、廃藩置県により、堺県丹北郡川辺村となりました。また、交通の要所として発展してきた川辺村に明治橋が作られ、大和川の往来がたやすくなり川辺村の役割も少なくなりました。明治22年には市制・町村制により、川辺村、長原村、六反村、出戸村の4村が合併して、中河内郡長吉村となりました。

★戦争のころ(昭和初期)
日中戦争から第2次世界大戦にかけて、戦争の準備が盛んになりました。大和川の堤防拡張工事が行われ、川幅が広げられ、頑丈な堤防も築かれました。そのため、川辺村の民家も一部削られ、すぐそばに堤防がくるようになりました。また、八尾の陸軍航空隊訓練所が、陸軍の空港になり、戦闘機の整備工場もでき(現瓜破霊園地域)八尾空港と瓜破間で鉄道が敷かれました。そして川辺村の北側に連絡滑走路が作られました。その他、大和川をはさんで、戦闘機訓練も行われました。また、大阪市営バスが初めて営業したのは昭和2年の平野から阿部野間の運行でした。

★第2次世界大戦後(昭和後期〜平成)
戦後、新しい憲法の制定とともに、教育制度も新しくなり小学校・中学校が設置されました。昭和30年、大阪市に編入され、長吉村川辺から東住吉区長吉川辺町になりました。大阪市に編入されることで、水道 給水が行われ市営バスが通るようになりました。昭和30年ごろから宅地ブームとなり、市営・府営・公団住宅の建設が始まりました。昭和45年、馬池の西側の田畑も宅地として開発され、市営長吉長原第3住宅ができました。住宅の建設とともに長吉地域の人口も増加しました。昭和45年、中央環状線の建設にともない、川辺2丁目と3丁目の間に大きな道路が通るようになりました。昭和49年、東住吉区が分けられ、新しく平野区が誕生し、平野区長吉川辺町となりました。昭和53年から、長吉・瓜破地区土地区画整理事業が始まり、道路の建設などが進められました。昭和55年には、地下鉄谷町線が開通し通勤や通学が、便利になりました。昭和63年、明治橋の付け替えが行われました。馬池の埋め立ても進められ、新たな道路も作られました。大和川の河川敷にも公園が作られています。 



  長原遺跡

縄文時代の河内湾

川辺八幡神社

河内綿

昭和初期の水田

大和川改修附帯明治橋

昭和7年明治橋南詰

地下鉄長原駅

昭和2年市営バス1号