当麻寺 (奈良県葛城市) −当麻寺の歴史と文化−
當麻曼荼羅信仰の展開と現代的意義

當麻曼荼羅は平安以降の浄土信仰(死後に仏国土への往生を願う)の高まりとともに次第に信仰を集めた。特に法然上人の弟子・証空は、自ら信じる念仏の教え(念仏に唱えることによって浄土に救われる)を広めるために、多くの写本を作成し、全国に広めていった。それに伴い、當麻寺は浄土信仰の象徴として崇められ、多くの参拝者に信仰されるようになった。
また中将姫の物語は、謡曲から浄瑠璃、歌舞伎などさまざまな大衆演劇等の題材となり、悲劇のヒロインとして多くの脚色が加えられるにつれて、広く民衆に信仰されるようになった。
平安末の乱によって焼かれながらも復興し、今に伽藍を伝えることができたのは、この當麻曼荼羅と中将姫への信仰ゆえであるといっても過言ではない。

當麻曼荼羅の信仰は、身分の高い者から低い者まで幅広くひろまったというのも特徴のひとつである。念仏信仰は特に民衆に受け入れられたものであるし、曼荼羅厨子(国宝)の修復、須弥壇の造営(国宝)などは、源頼朝などの寄進によって為されている。
また、後西天皇の皇女である霊鑑寺尊秀尼と中宮寺宗栄尼は、特に中将姫に深く帰依し、それによって後西天皇の當麻寺行幸が行われた。このとき當麻寺では、片桐石州貞昌に依頼し、中之坊の庭園(名勝・史跡)の改修および茶室(重文)の造営を行っている。また、曽我二直庵により、書院(書院)の張壁、襖絵も制作されており、當麻曼荼羅と中将姫信仰の広がりが、貴重な文化を生み出したものといえる。

このように當麻曼荼羅は浄土信仰、特に念仏信仰の象徴として信仰されてきたのであるが、當麻曼荼羅は、来世での極楽往生を説くだけはなく、むしろ現世での救いを説くものであり、その具体的方法(観想)を示したものである。
當麻曼荼羅の信仰が高まった時代(平安から中世)には、そうした面は殆ど重要視されることはなかったようだが、現在ではようやく、當麻曼荼羅が説く本来の教義そのものに注目されるようになってきつつある。末法思想の時代に、至心に浄土往生を願うひとびとを救うことが「念仏信仰」の使命であったならば、時代の変わった現代においても同じ浄土教が説かれることの方がむしろ不自然ではなかろうか。現在、欧米で注目されている仏教思想は、「浄土教」ではなく「密教」か「禅」であることなどはその表れに違いない。

中之坊松村實昭師によると、當麻曼荼羅に説かれる観想法は、「阿弥陀十三観」といい、十三段階の瞑想法であるという。瞑想によって心を清め、浄土の相を観じ、仏との対話を想う。その過程に於いて、我が身を見つめ直し、この世の有り様を見つめ直すのである。信仰心の喚起という面だけではなく、浄土と現世が本質的に変わりなく、自分の心にほとけの心が宿っていることに気付かされる、その事にこの「行」の現代的意義を見いだすことができる。

中之坊で行われている「写仏体験」は、この「阿弥陀十三観」を簡素化したものといえるのではないだろうか。本格的な観想の行を一般の者が修するのは難しいが、「写仏」であれば素人でも気軽にできる。ほとけの姿を描き写すことによって、自己を見つめ直し、仏との一体感を体験するのであり、その意味で、當麻曼荼羅に説かれる教えを最も簡単かつ有効に体現するものといえるだろう。
「絵天井の間」として有名な客殿に「平成當麻曼荼羅」が祀られ、その前に写仏机が並べられており、大佛師・渡邊勢山と渡邊載方が手がけた写仏用紙が用意されているのであるが、この用紙の下絵の格調の高さは余の仏画手本に比して群を抜いている。中将姫による写経の故事と重ね合わせても、この写仏が當麻曼荼羅を理解する最も有効な手段の一つでもあることは疑いない。


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