当麻寺 (奈良県葛城市) −その歴史と文化−
当麻寺(正しくは「當麻寺」と表記)はもと河内国に建立された万法蔵院を前身寺とする。推古天皇20年(612)に、用明天皇の第三皇子麻呂古親王(当麻皇子)が兄である聖徳太子の教えにしたがって創建したものといい、現在大阪府太子町にその跡地伝承地がある。
その後、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見が霊夢にしたがって、役行者練行の当地へ遷造。禅林寺と号し、白鳳9年(天武天皇10年・681)に弥勒仏を本尊として創建されたのが現在の当麻寺である。
白鳳時代から天平時代にかけて、金堂の他、講堂、東塔、西塔といった伽藍堂塔が建立され、周囲には中院(現:中之坊)をはじめとする僧坊が整えられていき、平安時代には四十余坊を数え、江戸時代の記録にも三十一坊が記されている。

当初は三論学を中心とする奈良仏教の学問寺院であったが、弘仁14年(824)に弘法大師の参籠を仰ぎ、真言密教が伝えられた。それにより修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として変化を遂げ、十一面観音像(重文)、妙幢菩薩像(重文)、紅頗梨色阿弥陀如来像(重文)など優れた密教美術を遺すことになる。
また、天平時代に成立した当麻曼荼羅は、中将姫の尊い故事とともに広く信仰を集め、次第に弥勒仏を凌いで本尊と呼ばれるまでになった。今も、練供養会式や蓮華会、髪供養会といった伝統行事、中将姫の誓願に基づく祈願会や写仏会など、当麻曼荼羅は当麻寺の信仰の中心をなしている。
さらに、阿弥陀如来の極楽浄土を壮麗に表すこの当麻曼荼羅は、浄土宗知恩院の羨望するところとなり、南北朝時代に当麻寺の裏手に往生院(後に奥院と称す)を建立して二百余名の浄土僧を派遣した。中之坊や西南院などの中心の塔頭寺院が改宗に応じなかったため、当麻寺は真言宗のまま存続したが、このことを起源として真言宗寺院の当麻寺に浄土宗寺院も加わることになっていく。


中将姫と當麻曼荼羅
中将姫は、人皇四十五代聖武天皇の御代、横佩大納言・藤原豊成が観音菩薩に授かった娘といわれている。幼少より才色秀で、中将の位を授かり、四歳の時に白狐から与えられたといわれる『称讃浄土経』を日夜読誦するようになっていた。また、五歳の時に実母と死に別れ、六歳から迎えた継母の辛い仕打ちに苦しむ物語も広く伝えられている。しかし姫はあえて恨むことなく、万民の安らぎを願い続け、『称讃浄土経』を書き写す写経に専念した。そして、千巻の写経を成し遂げた十六歳のある日、西方の二上山に夕日が沈み、その夕日の中に仏の姿をご覧になった。そして夕空一面に極楽浄土の姿を観じられて、その楽土に遊ぶ境地に達しられたのであった。姫は都を離れ二上山の麓を訪れ、当麻寺に入門を願い出た。当時女人禁制であった当麻寺への入山はなかなか許されなかったが、姫は観音菩薩の加護を信じ、一心に読経を続けたところ、不思議にもその功徳によって岩に足跡が付いた(中将姫誓いの石)。姫の尊い誓願が認められ、翌年、入山が許された姫は、中之坊にて髪を剃り落とし、法如という名を授かって正式に尼僧となった。天平宝字七年(七六三)六月十五日のことであった。翌十六日には、毛髪を糸として阿弥陀・観音・勢至の梵字を刺繍し、仏への感謝を表した。そして、あの夕空に見たほとけの姿、安らぎの境地を人々にも伝えたいと願われたのであった。すると、翌十七日の正午、一人の老尼が現れて「蓮の茎を集めよ」と告げた。法如は言葉に従い、父の助けを借りて、大和・河内・近江の三国から蓮の茎を集めた。さらに老尼にしたがって、茎より糸を取り出し、それを井戸で五色に染め上げた。二十二日の黄昏時、今度は若い娘がやってきて、法如をつれて千手堂に入り、五色の糸を用いて織物を始めたのだった。こうして機織りは二十二日の宵から始まり、二十三日の明け方には、一丈五尺もの大曼荼羅が織り上がっていた。これが国宝・綴織当麻曼荼羅である。老尼はこの曼荼羅を前にして詳細に絵解きすると、若い織姫とともに忽然と姿を消した。この老尼こそ阿弥陀如来、織姫は観音菩薩の化身であったという。
当麻曼荼羅のまばゆい光に心を救われた法如は、人々に曼荼羅の教えを説き続けた。ひとりひとりが静かに御仏を想えば、仏の救いを得て皆の心が清らかになり、この世がそのまま浄土となる。この現世浄土の教えを説き続けた法如は、二十九歳の三月十四日、仏菩薩のお迎えを得て、現し身のままで極楽往生されたのであった。


当麻曼荼羅と曼荼羅堂

綴織当麻曼荼羅 国宝 天平時代 縦394.8cm 横396.9cm
当麻曼荼羅は全国に多くの模写本が作られているが、その原本は天平宝字七年(七六三)に中将姫が感得したとされるもので、「根本曼荼羅」や「古曼荼羅」などとも呼ばれている。損傷が著しいため、当麻寺の秘宝として保存されているが、すぐれた技法で精緻な織り上げられた綴織で国宝に指定されている。
縦横約四メートルの画面に、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩をはじめ、多くの仏菩薩、天人、楼閣、宝樹、宝池などを配し、極楽浄土の光景を壮麗に描き上げている。また、周囲には、『観無量寿経』に説かれる釈迦の説話、仏の観想法などが表されている。観想とは、心を清める仏道修行の一つで、ほとけの姿や浄土の光景を心に想い描く瞑想法である。特に、五感で「仏」を体感する密教の修法として重んじられる。極楽浄土の観想を具体的に示した当麻曼荼羅は、単なる浄土絵図ではなく、仏法の真髄を説く「マンダラ(真理を有するもの)」であることは弘法大師の看破したとおりである。

文亀曼荼羅 重文 室町時代 縦378.0cm 横388.0cm
当麻曼荼羅は鎌倉時代以降に多くの模写本が作られたが、当麻寺本尊として正式に転写されたものとして現存するのは「文亀曼荼羅」と「貞享曼荼羅」の二例である。 文亀曼荼羅は法橋慶舜によって写され、文亀三年(1503)に開眼供養されて、当麻寺本尊として祀られている。

各種の曼荼羅写本
当麻曼荼羅の写本は、縮小鎌倉本(中之坊蔵)や文亀第二転本(奥院蔵)など各塔頭にも伝わるほか、永観堂禅林寺本(重文)をはじめ、高野山清浄心院本(重文)、天台宗常楽寺本など宗派を越えて全国の各寺院に写本が現存する。さらには京都仁和寺(真言宗御室派総本山)にある金堂壁画の浄土図も当麻曼荼羅を元にして描かれるなど、全国にある浄土図の基本ともなっている。

曼荼羅堂 国宝 天平時代−平安時代
曼荼羅堂は当麻曼荼羅を祀る御堂で現在は本堂とも呼ばれている。
創建当初の当麻寺は金堂を中心とする寺院で、曼荼羅堂は千手堂という脇のお堂でしかなかったが、曼荼羅信仰の高まりとともに本堂として礼拝されるようになり、建物も拡張された。
金堂や講堂が南面しているのに対し、曼荼羅堂は西方極楽浄土を象徴して、寺の西方に東面して建つ。桁行き七間、梁間六間で、内部は内陣、外陣、外々陣に分けられる。内陣は天平様式を伝え、桁行七間、梁間四間であり、この部分が当初の千手堂に相当する。永暦2年(1161)に外陣部分を拡張して再建される。旧堂を取り込む形で建てられており、後に発展したこの種の堂の最古の例として貴重である。

当麻曼荼羅厨子および須弥壇 国宝 天平時代−鎌倉時代
当麻曼荼羅を収める厨子は、根本曼荼羅を掛けるために制作されたもので、檜材製、漆塗りの六角形厨子である。柱上に台輪を置き、その上に、木心乾漆・金箔押しの獅子像を十体配している。天井格間、桁、柱の内側には金銀泥絵の花鳥、飛雲や飛天、散華などが、軒裏には金平脱文みられ、これらは厨子制作当初の奈良時代のものと見られている。仁治3年(1242)には板扉が作られるなど大規模な修理が為されており、その時の寄進者である「源頼朝」などの名が記されている。
須弥壇は、頼朝の寄進によって造られたもので、寛元元年(1243)の銘がある。美しく施された螺鈿が当初のまま遺っている。

十一面観音菩薩像 弘仁時代 171.5cm
曼荼羅堂「織殿の間」に祀られる十一面観音像で、檜の一木造。当麻寺の木彫像の中で最も古い遺品の一つである。当初の彩色模様を表面に遺すほか、一部に天平風が指摘される箇所があり、千手堂以来の安置仏と考えることのできる貴重な古仏である。織姫観音あるいは織殿観音とも呼ばれている。

「弘法大師参籠の間」
弘法大師が二十一日間修法した部屋とされ、張壁に弘法大師、真雅僧正、智泉法師が描かれる。「いろは歌」を創案した部屋とも伝わる。弘仁14年秋に当麻寺を訪れた大師は、当麻曼荼羅の秘観に入り、当麻曼荼羅に「密厳浄土の教え」が表されていることを看破し、その教えを中之坊実弁に伝えた。

来迎阿弥陀如来像 県文
恵心僧都作と伝わる本像は、内部が空洞となっており、人が入れるようになっている。毎年五月十四日に修される練供養会式に用いられていたとみられる大変珍しい像である。

役行者および前鬼・後鬼像 室町時代 
当麻の地は、役行者の練行の地であり、白鳳時代、万法蔵院遷造にあたり当地を寄進した。本尊・弥勒仏の胎内に孔雀明王像を納め、四天王を飛来させ、熊野権現を勧請し、中之坊で霊薬を創製したなど、数々の伝承を残している。
当像はもと金堂に祀られていたが、役行者千三百年御遠忌にあたる平成12年に曼荼羅堂に移された。


當麻曼荼羅信仰の展開と現代的意義

當麻曼荼羅は平安以降の浄土信仰(死後に仏国土への往生を願う)の高まりとともに次第に信仰を集めた。特に法然上人の弟子・証空は、自ら信じる念仏の教え(念仏に唱えることによって浄土に救われる)を広めるために、多くの写本を作成し、全国に広めていった。それに伴い、當麻寺は浄土信仰の象徴として崇められ、多くの参拝者に信仰されるようになった。
また中将姫の物語は、謡曲から浄瑠璃、歌舞伎などさまざまな大衆演劇等の題材となり、悲劇のヒロインとして多くの脚色が加えられるにつれて、広く民衆に信仰されるようになった。
平安末の乱によって焼かれながらも復興し、今に伽藍を伝えることができたのは、この當麻曼荼羅と中将姫への信仰ゆえであるといっても過言ではない。

當麻曼荼羅の信仰は、身分の高い者から低い者まで幅広くひろまったというのも特徴のひとつである。念仏信仰は特に民衆に受け入れられたものであるし、曼荼羅厨子(国宝)の修復、須弥壇の造営(国宝)などは、源頼朝などの寄進によって為されている。
また、後西天皇の皇女である霊鑑寺尊秀尼と中宮寺宗栄尼は、特に中将姫に深く帰依し、それによって後西天皇の當麻寺行幸が行われた。このとき當麻寺では、片桐石州貞昌に依頼し、中之坊の庭園(名勝・史跡)の改修および茶室(重文)の造営を行っている。また、曽我二直庵により、書院(書院)の張壁、襖絵も制作されており、當麻曼荼羅と中将姫信仰の広がりが、貴重な文化を生み出したものといえる。

このように當麻曼荼羅は浄土信仰、特に念仏信仰の象徴として信仰されてきたのであるが、當麻曼荼羅は、来世での極楽往生を説くだけはなく、むしろ現世での救いを説くものであり、その具体的方法(観想)を示したものである。
當麻曼荼羅の信仰が高まった時代(平安から中世)には、そうした面は殆ど重要視されることはなかったようだが、現在ではようやく、當麻曼荼羅が説く本来の教義そのものに注目されるようになってきつつある。末法思想の時代に、至心に浄土往生を願うひとびとを救うことが「念仏信仰」の使命であったならば、時代の変わった現代においても同じ浄土教が説かれることの方がむしろ不自然ではなかろうか。現在、欧米で注目されている仏教思想は、「浄土教」ではなく「密教」か「禅」であることなどはその表れに違いない。

中之坊松村實昭師によると、當麻曼荼羅に説かれる観想法は、「阿弥陀十三観」といい、十三段階の瞑想法であるという。瞑想によって心を清め、浄土の相を観じ、仏との対話を想う。その過程に於いて、我が身を見つめ直し、この世の有り様を見つめ直すのである。信仰心の喚起という面だけではなく、浄土と現世が本質的に変わりなく、自分の心にほとけの心が宿っていることに気付かされる、その事にこの「行」の現代的意義を見いだすことができる。

中之坊で行われている「写仏体験」は、この「阿弥陀十三観」を簡素化したものといえるのではないだろうか。本格的な観想の行を一般の者が修するのは難しいが、「写仏」であれば素人でも気軽にできる。ほとけの姿を描き写すことによって、自己を見つめ直し、仏との一体感を体験するのであり、その意味で、當麻曼荼羅に説かれる教えを最も簡単かつ有効に体現するものといえるだろう。
「絵天井の間」として有名な客殿に「平成當麻曼荼羅」が祀られ、その前に写仏机が並べられており、大佛師・渡邊勢山と渡邊載方が手がけた写仏用紙が用意されているのであるが、この用紙の下絵の格調の高さは余の仏画手本に比して群を抜いている。中将姫による写経の故事と重ね合わせても、この写仏が當麻曼荼羅を理解する最も有効な手段の一つでもあることは疑いない。


弥勒信仰と金堂

弥勒仏坐像 国宝 白鳳時代 219.7cm
当麻寺創建時の本尊で、681年の作とされる。土を盛って造られた塑像で、塑土の上に布を張り、漆、金箔で仕上げている。日本最古の塑像である。
弥勒菩薩は未来に降臨し、如来となって衆生を救うとされており、当像はその如来となった姿を表現している。仏教が伝来して間のない飛鳥時代には弥勒信仰は特に盛んであり、当麻寺においても来世への想いを弥勒菩薩に託して本尊とされたのであろう。
現在の当麻寺は阿弥陀信仰の隆盛に伴い、弥勒信仰は影が薄くなった感があるが、それでもなお弥勒信仰は根強く残っている。
ひとつには弥勒菩薩と阿弥陀如来は密接に関わりがあるということと、もうひとつは塔頭の中之坊が大和十三佛巡礼の弥勒菩薩札所になっていることが挙げられる。特に中之坊は、弥勒菩薩の化身とされる布袋尊も祀り「大和七福八宝めぐり」の札所にもなっており、当麻寺の弥勒信仰を受け継いでいるといえよう。

金堂 重文 鎌倉時代
当麻寺の最も中心の堂宇で、根本本尊である弥勒仏や、四天王などの白鳳仏を安置する。 当初の金堂は平重衡の南都焼討ち(1180)の際に破壊されたため、寿永3年(1184)に再建され、正中3年(1326)に大規模な修理が行われている。桁行五間、梁間四間の入母屋造りで、南面して建つ。

四天王立像 重文 白鳳時代
 持国天 217.6cm 増長天 219.1cm 広目天 221.2cm 多聞天 217.6cm
仏法を守護する四方神で、金堂須弥壇上の四隅に安置される。現存最古の乾漆像で、胎内に桐材が残っており、木心乾漆にも近い脱活乾漆技法の最初期のものである。
増長天、持国天、広目天の三体は白鳳時代の像であるが損傷がひどいため下半身の多くは乾漆や木製で補修されており、多聞天は全てが鎌倉期の木造補作になっている。南都焼き討ちの際に破損したものである。
四天王像としては法隆寺像に次いで古い像で、百済より献納されたといわれる通り、大陸的風貌を漂わせ、特徴的な顎髭を蓄えた他に類見ない像である。

不動明王立像 藤原時代
彩色・樟材一木造。昭和初期まで、中之坊貫主がこの像の前で護摩祈祷を修していたらしい。

石灯籠(重文 白鳳時代)と影向石
金堂前の石灯籠は二上山の凝灰岩で作られた日本最古の石灯籠。
その脇にある影向石は、役行者が本尊前で修法した際に座った石といわれ、このとき熊野権現が影向したという。その熊野権現社は土塀を一つ隔てた中之坊境内に安置されている。


講堂 重文 鎌倉時代
講堂は経典講読などの勤めなどを行う場所で、金堂に次いで白鳳時代に創建されたが、平安末に焼失し、乾元2年(1303)に再建されている。僧侶らが集うため金堂より大きく造られており、桁行七間、梁間四間の寄棟造りである。
金堂とは異なり、当初の仏像は全焼したため、諸堂、僧坊より集められた仏像、宝物が安置されている。

阿弥陀如来像 藤原時代 227.0cm
檜材、寄木造、漆泊仕上げの丈六阿弥陀如来像で、講堂焼失後、すぐに制作された像と見られる。 講堂の再建が百二十年も後であることから、他の堂からの移安仏と考えられるが、講堂本尊の再興として制作され、仮堂に安置されていたとも考えられる。いずれにせよ講堂本尊としてふさわしい像である。

妙幢菩薩像 重文 弘仁時代
 147.2cm 講堂内最古の像は、欅材一木作りの妙幢菩薩像である。弘仁時代に遡る像で、わずかに腰をひねり、太造りで豊かな像である。「妙幢菩薩」とは地蔵菩薩の異名の一つであるが、宝珠を持たない姿は古式で珍しく、密教系の菩薩像として注目される。

伝阿弥陀如来坐像 重文 藤原時代 86.0cm

木造地蔵菩薩立像 重文 藤原時代 255.0cm


東塔 国宝 天平時代 24.39m

西塔 国宝 天平時代−弘仁時代 25.21m

東西ともに三重の塔で、東塔は天平時代、西塔は天平時代末期から弘仁時代の建立であり、こうした古代伽藍の東西両塔が揃って現存するのは全国で当麻寺のみである。伽藍の中心である金堂よりも高い丘上にあるのは変則的であるが、遠望することができ、よく地の利を得ている。二上山の麓を訪れた中将姫が、東塔にひかれて当麻寺にたどり着いた話も頷ける。東塔は初層のみを三間とし、二層、三層を二間とする大胆で異例な構造。相輪が八輪であることや、水煙が魚骨形であることなど、他に類を見ない特徴を多く備えている。西塔は各層とも三間で、相輪は東塔と同じく八輪、水煙は蔓唐草に未敷蓮華を火焔状に配した古式で華麗なものである。
塔は伽藍のシンボルであり、東塔内には、宇宙の根本仏である大日如来像、西塔には当麻寺の両本尊、阿弥陀如来と弥勒菩薩像が祀られている。

梵鐘 国宝 白鳳時代
東大門を入ってすぐの梵鐘は銘はないが白鳳時代のもので、日本最古のものである。

大師堂 県文 室町時代
当麻寺境内地の奥にある大師堂は、高野山より移された等身大の弘法大師像が祀られている。堂の周囲には中之坊や西南院の歴代住職の供養塔が並び、当麻寺の奥の院として重んじられてきた聖地である。
これに対し、塔頭奥院は京都知恩院の奥の院として創建されたものであるから、当麻寺の奥の院ではない。


中之坊庭園と書院

当麻寺開創の際、役行者は金堂前(影向石)にて熊野権現を勧請し、その出現した場所に自身の道場を開いた。役行者はそこに井戸を掘り、水を清め、陀羅尼助を創製し、施薬の行をはじめたともいう。
奈良時代には、当麻寺別当・実雅がその道場を住房とし、中院を開いた。中院は代々当麻寺別当(住職)の住房として「中院御坊」と尊称され、「中之坊」となった。弘仁時代には、弘法大師が中之坊実弁を弟子として真言密教を伝え、十一面観音を本尊とする密教道場となった。

中之坊は当麻寺最古の塔頭であり、また、中将姫剃髪所とも伝わることから、そのゆかりの宝物など多くの貴重な品を伝えるが、それ以上に知られているのは、庭園と書院・茶室である。

中之坊庭園「香藕園」 名勝及史跡 桃山時代
大和屈指の名園として知られる中之坊庭園は、もと鎌倉時代に造られたとみられる。現在の庭園は桃山時代に造営され、後西天皇の行幸に際して片桐石州によって改修された。
池泉回遊式庭園であると同時に、書院からの眺めにも配慮した観賞式庭園でもある。心字を表す池を中心に、極端に低い土塀によって庭園を二段構えとして奥行きを持たせ、国宝東塔を借景に取り入れている。
古くから大和三名庭の一と称され、昭和9年に国の保存指定を受けている。

中之坊書院及茶室 重文 桃山時代−江戸初期
東面切妻造・西面入母屋造・柿葺きの書院造の建物。後西天皇の玉座のある「御幸の間」があり、その南に畳敷き広縁を控えて庭園に面している。「御幸の間」「鷺の間」「鶴の間」には曽我二直庵による花鳥・楼閣・山水の貴重な張壁・襖絵が残っている。
茶室は庭園改修の際に、片桐石州により造られたもので、四畳半の「丸窓席」はその名の通り方一間もの大円窓が意匠の中心となっており、開き戸の躙り口や、片隅の小さな置床など随所に珍しい工夫を取り入れている。

金銅宝塔 室町時代
霊宝館に納められている高さ43cmの金銅製宝塔で、文安2年(1445)の銘がある。
塔内には、香木に精巧に彫られた像高わずか3cmの愛染明王坐像が納められている。


西南院の三観音

奈良時代以前の寺院は、僧侶は仏堂に寄宿していたが、奈良時代末から平安時代になると、僧坊が建てられていくようになる。塔頭の西南院もその中の一つで、その名の通り境内の西南に位置する。ちなみに東南には東南院があったが現存していない。
本堂内に平安時代の観音像が三体(いずれも重文)並ぶ姿は圧巻である。

十一面観音立像 重文 藤原時代 172.5cm
西南院の本尊である十一面観音で桜材の一木造り。十世紀末頃の作とみられるが、随所に古式な特徴も備えており、長身で端正な姿である。

聖観音立像 重文 藤原時代 176.0cm

千手観音立像 重文 藤原時代 133.5cm
通常、千手観音は四十二手で千手を表すが、当像は実際に千手が造られた貴重なもので、今もその多くの手が現存している。


各院の庭園とぼたん園

当麻寺には中之坊庭園だけでなく、西南院にも江戸時代中期頃の名園があり、護念院にも江戸後期の庭園がのこる。
西南院庭園は西塔を借景として特に紅葉の頃に美しく、花の寺としても知られている。

近時には奥院も庭を造営し「浄土庭園」と名付け、他の塔頭と美を競うようになったが、残念なことに様式的には浄土庭園(浄土式庭園)ではなく、また、祀られる阿弥陀如来石像も当麻曼荼羅を模していない。

各院はまたぼたん園を有しており、季節には多くの観光客でにぎわう。


各院の宝物

当麻寺には国宝・重文などの文化財が数多く、そのほとんどは曼荼羅堂・金堂・講堂などで拝観することができるが、紅玻梨色阿弥陀如来像(重文)や吉祥天像(重文)など、国立博物館に寄託しているものもある。また、練供養会式に用いられる菩薩面は護念院が管理している。
それとは別に、各院に伝来する宝物も数多く、特に中之坊や西南院には仏像や仏画の他にも伝統的な儀式に関する作法集や法具なども残っている。当麻寺の古い伝統を伝える真言宗寺院にそうした宝物を保管されているのは当然といえるが、浄土宗寺院、特に後に創建された塔頭奥院にも多くの貴重な品が伝えられているのは注目すべきであろう。

<念仏院>
・木造 善導大師坐像 鎌倉時代

<護念院>
・十一面観音立像版木 鎌倉時代
この版木は曼荼羅解体修理の際に屋根裏からみつかったものである。経緯は明らかでないが、現在は護念院の所蔵となっている。

<奥院>
京都知恩院が当麻寺を欲し、応安三年(1370)に建立したのが往生院で、現在は奥院と名を変えている。本尊の法然上人像(重文)をはじめ多くの宝物を蔵するが、その多くは往生院創建以前のものであり、中には奈良時代の宝物もあり、密教系の宝物も数多い。
当時の浄土宗の勢力と財力の大きさが窺い知れる。

・倶利伽羅龍蒔絵経箱 国宝 平安時代−東京国立博物館
不動明王を象徴する倶利伽藍宝剣と、不動明王の脇侍である二童子を蒔絵により描いている。不動信仰と無関係である浄土宗寺院が欲するのも頷ける名宝である。
現物は東京国立博物館に寄託されている。(紛らわしい情報に惑わされ、当webサイトも奥院宝物館に現物があるかのように記載しておりました。訂正してお詫び申し上げます。)

・押出銅造三尊仏 重文 天平時代

・選択本願念仏集 重文 鎌倉時代


松室院の絵天井

松室院は平安時代に創建された当麻寺の塔頭であり、藤原期の十一面観音を本尊とする。
昭和4年に中之坊客殿として再興され、その頃より前田青邨をはじめとする著名な画家により天井絵が寄進されている。格天井に二尺五寸四方の板絵をはめ込んだもので、円形の絵の周囲に金箔装されている。中村貞以、木村武山、小松均、青木大乗など錚々たる画家の作品により九十五点もの作品が集い「昭和の天井絵」と呼ばれた。
さらに平成16年の松室院修理に併せ、「平成の天井絵」と称される新たな天井絵が寄進されており、上村淳之、中島千波ら著名日本画家らの作品が寄せられ、「昭和の天井絵」と合わせて150点に及ぶ豪華な天井絵となっている。党派を超越した著名画家が一堂に会し、全て無償で絵を奉納した格天井は他に類を見ない。

松室院は「写仏道場」ともよばれ、中将姫が千部の写経を成満した故事に基づき、写経や写仏を行う道場となっている。床の間には「平成当麻曼荼羅」が祀られ、その前に写仏机が並べられている。


聖衆来迎練供養会式 5月14日
中将姫の現身往生を再現する行事で、寛弘2年(1005)に恵心僧都によってはじめられた。
曼荼羅堂を極楽浄土に見立て娑婆堂まで来迎橋を架け、極楽世界と現世とを繋ぐ。
まず中将姫が現世にいったん里帰りすると、真言宗僧侶が極楽荘厳のために散華行道しながら上堂し、曼荼羅堂の花筵場に到って極楽浄土の聖衆として法会を勤める。続いて稚児などの行列の後、二十五菩薩が極楽浄土より来迎する。娑婆で菩薩のお迎えを待っていた中将姫は、観音菩薩の蓮台に乗せられて再び極楽浄土へ帰っていく。菩薩面、装束をつけた聖衆が極楽往生の様子を鮮やかに再現し、ひとびとに仏の功徳を体感せしむるのである。
会式は午後四時の一番鐘とともに始まり、菩薩衆が極楽へ帰る頃には、二上山の間に夕日が沈んでいく。まさに阿弥陀如来の光明の顕現である。


<参考文献>
「當麻寺」  當麻寺中之坊 飛鳥園
「當麻寺私注記」 河中一学 雄山閣出版
「大和古寺大観 第二巻 当麻寺」 岩波書店
「日本の古寺美術11 当麻寺」 保育社
「當麻町の文化財 第一集」 當麻町教育委員会
「當麻寺」 新井和臣 近畿観光会
「当麻寺」 北川桃雄 中央公論美術出版
「当麻」 近畿文化会編 (他)
 その他 當麻寺各塔頭のパンフレット、當麻寺中之坊や當麻寺奥院のwebサイトなど