当麻寺について (奈良県葛城市) 
河中一学著『當麻寺私注記』に影響を受け、敬愛する当麻寺について調べ、足を運び、見聞きしたことのメモ書き。
創建の伝承
当麻寺(正しくは「當麻寺」と表記)に関する史料は、平安期以前のものはなく、『建久御巡礼記』が初出である。ほかに『古今著聞集』巻二第三六話や『上宮太子拾遺記』などがあり、いずれも当麻寺の建立以前に、万法蔵院という前身寺の存在を主張する。
万法蔵院は、推古天皇20年(612)に、用明天皇の第三皇子麻呂古親王(当麻皇子)が兄である聖徳太子の教えにしたがって創建したものという。その場所は河内国といい、また、『上宮太子拾遺記』では現在の寺の南五六町にあったともいい、現在大阪府太子町にはその跡地伝承地と主張する場所が存在する。当麻寺が公式に前身寺故地として認定している場所はないらしい。
その後、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見が霊夢にしたがって、役行者練行の当地へ遷造。禅林寺と号し、白鳳9年(天武天皇10年・681)に弥勒仏を本尊として創建されたのが現在の当麻寺である。
創建の年号について
この年号について、当麻寺の護持寺院が発行するパンフレットやwebサイトなどで確認すると、中之坊は白鳳9年=天武天皇10年=681年としていたが、それ以外の各院の資料は、白鳳9年=天武天皇9年=681年としているものがほとんどであった。河中一学氏『當麻寺私注記』によると、『扶桑略記』によるところとして、天武天皇2年=白鳳元年と説明されている。当麻寺が公式に創建年を681としてるのは『建久御巡礼記』に白鳳九辛巳年と記されているからであり、辛巳と記されていることから681年であることがわかる。そして681年は天武天皇10年であり、當麻寺各院の資料の多くは残念ながら不正確ということになろう。
なお、ここでいう「護持寺院」「各院」とは、当麻寺に現存する13の僧院(中之坊、奥院、念仏院、護念院、竹之坊、松室院、不動院、西南院、極楽院、千仏院、来迎院、宗胤院)のうち、当麻寺の運営に携わっている7カ院(中之坊、奥院、護念院、竹之坊、松室院、不動院、西南院)を指し、さらに合併・兼務による実質4カ院(中之坊、奥院、護念院、西南院)を指している。(松室院は中之坊に、竹之坊と不動院は西南院に管理が統合されている)
護持寺院以外の6カ院についてあるが、取材の過程でそれなりに詳しい事情が把握できたが、ここでは記さないこととする。

當麻寺/当麻寺の表記について当麻寺(當麻寺)の表記についてあるが、寺の公式表記は「當麻寺」となっている。所在市町村の「當麻町」も旧字を正式としている。(追記:平成16年に市町村合併により葛城市となった)
しかし、最寄り駅である近鉄電車の駅名は「当麻寺」である。
奥院のwebサイトでは「當麻寺」が正しいと明記され、根拠として創建時には新字がなかったからと記されている(追記:webサイトリニューアルにより現在は確認されず)。 しかし、中之坊の七福八宝めぐりの朱印では「当麻寺中之坊」の印が用いられている。「「當麻寺」を基本としてるが、「当麻寺」も併用している、「当」は「當」の草書体であり、中国古典でもあらわれており、寺でも昔から使われている」とのことであった。
(追記(一部変更):当サイトで「当麻寺」を使用しているのは、開設当時のデフォルトの変換が「当麻寺」であったためである。現在は「當麻寺」が知られるようになり、普通に変換されるようになってきたたが、あえて変更せずにもとのままとする)

伽藍堂塔と僧院の成立と変遷
史料には創建時に七堂伽藍がことごとくなったとあるが、実際には、飛鳥時代後期(白鳳期)から奈良時代(天平期)、平安時代初期(弘仁期)にかけて、金堂の他、講堂、東塔、西塔といった伽藍堂塔が時間をかけながら建立されていったようである。僧院の起源は、現:中之坊の中院であり、奈良時代實雅(当麻寺第11世)の代と伝える。その他、僧坊が順次整えられていき、平安時代には四十余坊を数え、江戸時代の記録にも三十一坊が記されている。

「創建当初は三論宗であった」というのを公式見解としているように、当麻寺は当初、三論学を中心とする奈良仏教の学問寺院であったようである。弘仁14年(824)に弘法大師の参籠を仰ぎ、真言密教が伝えられたという。前述の通り、当麻寺に関する平安期の史料というのは存在しないが、十一面観音像(重文)、妙幢菩薩像(重文)、紅頗梨色阿弥陀如来像(重文)など優れた密教美術を遺すことから、平安時代に密教化が進んだことは明らかで、それにより修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として発展したことは容易に想像できる。
のち興福寺の勢力下に入り、興福寺より別当職が派遣される時代が来るが、それにより、南都焼き討ちのあおりを受け、当麻寺も被害を受ける。竹内峠を超えた侵入した越中次郎兵衛盛嗣により講堂を焼かれ金堂は大破したと記録される。

奈良時代に成立した当麻曼荼羅は、証空が称賛したことにより広く知られるようになり、中将姫の尊い故事とともに広く信仰を集め、当麻寺は極楽浄土の聖地として認知されるようになる。いつの間にか、寺の本尊も弥勒仏ではなく当麻曼荼羅と認識されるようになる。創建当初は当麻氏の氏寺として成立したのであろうが、当麻氏の衰退が寺勢に影響したはずであるが、密教化や、浄土教の隆盛など、さまざまな変化に対応しながら生き延びてきたところに当麻寺の最大に魅力があると考える。南都焼き討ちによる危機も源頼朝の遺進によって復興していく。
南北朝時代には、当麻寺は、浄土宗知恩院の羨望するところとなり、当麻寺の裏手に往生院(後に奥院と称す)を建立して二百余名の浄土僧を派遣した。当時、知恩院は同様の方法で全国の寺院に勢力を伸ばしており、知恩院は当麻寺に対してはかなりの力の入れようであったようであり、中之坊や竹之坊などの真言方とはなかなかの衝突・対立もあったようであるが、紆余曲折を経ながら、真言宗寺院の当麻寺に浄土宗寺院も同居し共同運営をする現在の形態に徐々になっていったようである。


<中之坊>

中之坊の由来であるが、創建の由来不明と書かれた資料が多いものの、同じく奈良時代以前からの由緒を主張する西南院や護念院と比べて、その来歴は意外とはっきりしている。正式な開山は奈良時代の三論学の僧・実雅であり、その僧は当麻寺第11代の住職である。
中之坊の公式見解によると、「当麻寺開創の際、役行者は金堂前(影向石)にて熊野権現を勧請し、その出現した場所に自身の道場を開いた。役行者はそこに井戸を掘り、水を清め、陀羅尼助を創製し、施薬の行をはじめたともいう。奈良時代には、当麻寺別当・実雅がその道場を住房とし、中院を開いた。中院は代々当麻寺住職の住房として「中院御坊」と尊称され、「中之坊」となった。」とあるが、白鳳期はともかく、実雅開山という伝承などは史実との差異はそれほど大きくないと考えてもよいであろう。弘仁時代には、弘法大師が中之坊実弁を弟子として真言密教を伝え、十一面観音を本尊とする密教道場となったとも伝えるが、これらは「弘法大師年譜」や「中之坊文書」にも記されており、当麻寺密教化の中心であったことは確かであろう。

中之坊庭園は、桃山時代に造営され、後西天皇の行幸に際して片桐石州が改修したという。石州の関わりが疑問視されることもあるが、二上権現の別当職であった中之坊と二上権現普請奉行であった片桐且元との関わりは史実と考えられる。豊臣秀吉朱印状や松の丸釜も現存し、豊臣家、片桐家との関わりから、中之坊庭園の石州の関わりを類推することも可能であろう。
古くから大和三名庭の一と称され、昭和9年に国の保存指定を受けている。大和三名園は、中之坊庭園、竹林院庭園のほか、古くは大乗院庭園が数えられていたが、今は慈光院庭園となっている。
庭園の造りの特徴は、池泉回遊式庭園と観賞式庭園を兼ねていることと、庭園を外庭・内庭に区切る土塀である。特に土塀は、低く作ることによって遠くにあるように見せる遠近法を用いていて、庭を少しでも広く見せようという工夫である。しかし、土塀の中央にある高い門が土塀の存在意義を殺していて、甚だ残念である。これは後世の改悪であることは明らかで改善が期待される。岡本太郎も著書『日本の文化』でその点を指摘している。


<西南院>

奈良時代以前の寺院は、僧侶は仏堂に寄宿していたが、奈良時代末から平安時代になると、僧坊が建てられていくようになる。塔頭の西南院もその中の一つで、その名の通り境内の西南に位置する。ちなみに東南には東南院があったが現存していない。
寺の公式見解は、「白鳳創建期に当麻寺の裏鬼門の守りとして創建」「西塔の別当となる」「弘仁期には弘法大師も留錫」とあるが、いずれも史料・確証がない。特に「別当職」という職務から考えて「西塔の別当」というのは意味不明であり、何かの誤伝であろうか。
本堂内に平安時代の観音像が三体(いずれも重文)並ぶ姿は圧巻である。


<護念院>
高野聖が戦国時代ごろに創建した寺院である。寛文年中の史料によると、もとは真言宗寺院であったものを、地元の有力者である万歳殿(万歳氏)が、浄土宗化させたという。練供養会式は元々念仏院が取り仕切っていたが、立地の良さから護念院が執り行うようになり現在に至っている。中将姫棲身旧跡と伝わり、また弘法大師創建との伝えもあるが、上述の通り史実ではない。


<奥院>

当麻寺の最も奥に位置する奥院は、応安三年(1370)に建立されている。京都知恩院が当麻寺を欲して建立した寺院で、もとは往生院といい、現在は奥院と名を変えている。
本尊の法然上人像(重文)を戦乱から守るために京都より当麻に移すことになったというのが“公式”であるが、室町〜江戸期は、知恩院がさまざまな既存寺院に勢力を伸ばし、かなり多くの寺院を傘下におさめた時期である。特に当麻曼荼羅を有する当麻寺は是が非でも欲したようで、二百名の僧を派遣する力の入れようであったと記録に残っている。葛城地域では、御所市の九品寺などももとは真言宗寺院であったのが浄土宗に改宗ししたものである。当麻寺の場合は真言方の抵抗もあり改宗がうまくいかなかったようで、二宗が同居する結果となった。

宝物館には、数多くの宝物を伝えており、往生院創建以前のものも多く貴重である。奈良時代の宝物や密教系の宝物も多く収蔵するさまは、当時の浄土宗の勢力と財力の大きさが窺い知れる。庭園は近時の新造であり「浄土庭園」と名付けられているが浄土式庭園の様式にはなっていない。祀られる阿弥陀如来石像も当麻曼荼羅を模していない。


<竹之坊>
現在は西南院が管理している坊であるが、かつては当麻寺の真言方で中之坊に次ぐ位置にあった高格の僧院である。かつては役行者住房と信じられていたようで、修験者が必ず立ち寄っていた。

<念仏院>
善導大師を祀る。中之坊の隠居所である「南別所」にといい、浄土宗の西山派が建立し、練供養会式を主催した。江戸時代の史料によると、寺格順で中之坊の次席に位置している。のちに、鎮西派(知恩院を本山とする現在の「浄土宗」)となり、練供養会式の采配は護念院に移っている。現在は墓地寺院になっており、無住寺同然の状態にみえる。

<松室院>
十一面観音像を本尊とする。この像の造立時期である平安時代後期がこの院の創建期か。現在は、中之坊の写経所となっており、近代日本画家の天井画が有名である。


<参考文献>
「當麻寺私注記」 河中一学 雄山閣出版
「大和古寺大観 第二巻 当麻寺」 岩波書店
「日本の古寺美術11 当麻寺」 保育社
「當麻町の文化財 第一集」 當麻町教育委員会
「當麻寺」 新井和臣 近畿観光会
「当麻寺」 北川桃雄 中央公論美術出版
「当麻」 近畿文化会編 
「當麻寺」  當麻寺中之坊 飛鳥園
 その他 當麻寺各塔頭のパンフレット、當麻寺中之坊や當麻寺奥院のwebサイトなど