◎ 五ヶ伝 ◎ |
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大 和 伝 (やまとでん) |
大和伝は五ヶ伝中で最も古い流派と言えます。平安京へ遷都されるまでは奈良が都であり、政権の庇護のもと 刀剣の製作をしました。しかし奈良時代の物が正倉院に納められてはいるが現存する刀は微々たる数である。 これらは上古刀と呼ばれている。平安京へ遷都されると、大和国の鍛冶はその場に残りましたが政権の庇護者で ある注文主がいないので衰退して行きました。平安後期になると実質的に政権を握っていた藤原氏が権力を掌握 し各寺社は僧兵を抱えるようになりました。多くの大和鍛冶はそれらの寺社に抱えられ、それら各寺社のための 刀などを製作したので銘を切る必要が無かったためか無名の物がほとんどである。それ故に寺社の名を取り流派 の名として呼ばれています。また、大和鍛冶が制作した刀剣の大半は度重なる内戦などに使われたため現存数は 非常に少なくなっています。 大和伝の特徴は、重ねを厚くし、鎬(しのぎ)は薄くして高いのが特徴である。地肌は板目に柾目が混じる物や 全体的に柾目肌となるものなど柾目が混じるのが特徴である。 刃文は中沸本位の直刃に互の目、小丁子が混じり、二重刃、打ちのけ、喰い違い刃など柾目の肌に沿った働きが 多い。表裏の刃文がよく揃うのも特徴。切先の方に行くほど沸が強くなる傾向にある。鋩子は掃掛気味、火炎、 焼詰、となり反りは浅めが多い。大和伝には、千手院(せんじゅいん)、尻懸(しっかけ)、手掻(てがい)、 当麻(たえま)、保昌(ほうしょう)の大和五派を指す。 |
山 城 伝 (やましろでん) |
平安中期に京都の三条に住した公家の宗近(むねちか)を祖とし、京都を中心に栄えてた伝法。朝廷に仕える 貴族や天皇の需要に応じて優雅な反りのある太刀を製作し、鎌倉末期まで栄えた。山城伝の特徴は、小沸本意の 作刀で地肌は、小板目が良く詰んで地沸がよく付き潤いがあり、鎌倉時代に栄えた粟田口一派の梨子地肌は後の 肥前刀の(小糠肌・梨地肌)に良く見られます。 |
備 前 伝 (びぜんでん) |
古刀期から新刀期にわたり 特に繁栄し新々刀期まで続いた日本最大級の刀剣生産地域です。備前国(岡山県) 特に長船は、日本刀の一大生産拠点であった。また在銘・年紀も多数見られます。古刀期における日本刀生産の 70%以上は備前物と言われています。 また備前伝と比べれば 大和伝・山城伝(京)・相州伝は微々たる現存数しかないのです。備前伝は、良く詰んだ 板目肌、杢目混じりの板目肌に匂本位の丁子乱れを焼き、地に映り(うつり)が現れるのが特徴ですが 平安時代 から鎌倉初期までは、山城伝と同じく沸出来の直刃仕立ての刃文を焼いていました。鎌倉中期になり福岡一文字 により本来の匂本位の丁子刃の焼刃に変化していきました。福岡一文字は、焼き幅が広く、焼刃に高低差がある 重花丁子や大房丁子など華やかな刃文を焼き、働きも多く乱れ映りがあるなど技量の高さを誇り備前伝の黄金期 を作りました。また、福岡一文字の分派である備備中国片山に住みました。 片山一文字一派は、逆丁子(さかちょうじ)と呼ばれる、刃文を焼いています。鎌倉後期になると、吉岡の地に 移住した吉岡一文字一派が腰の開いた大まかな丁子刃を焼いていて互の目が目立つようになります。 景光により新たに片落ち互の目が創始され、長船と川を隔てた隣接地の畠田でも一派が興り、丁子刃に蛙子丁子 (かわずこちょうじ)を交えた刃文を焼いています。 南北朝期になると流行した相州伝を取り入れた相伝備前という伝法が現れ、長義や兼光の有名工が現れ、腰の開 いた互の目丁子や映りも棒映りや牡丹映りが見られ、地景や金筋の働きも見られます。室町初期は板目が大模様 に見えるものが多くなります。戦国期の末備前には互の目丁子の谷が丸くなるのが特徴ですが、映りはほとんど 見受けられなくなっています。 |
相 州 伝 (そうしゅうでん) |
相州伝の発生は、鎌倉中期頃になってから鎌倉幕府が、山城国から粟田口国綱を、備前国から 一文字分派の 国宗を、少し遅れて備前国福岡一文字助真、を鎌倉へ招いたことから始まります。鎌倉中期末の元寇襲来により 日本刀の欠点が明らかになり刀工達はその欠点の改善に取りかかりました。お膝元の鎌倉鍛冶は新たな鍛錬法の 研究に取り組みました。鎌倉へ下向した、山城国の粟田口国綱の子である新藤五国光は、同じく鎌倉へ下向した 備前三郎国宗にも学び山城伝、備前伝の双方を習得しました。また国光は「長谷部」と称したことから大和国と 関連があるとも言われ、山城伝や大和伝、を加味した焼きの強い鍛錬法に取り組みました。そして新藤五国光が 取り組んだ強い地刃は、弟子である行光に受け継がれその子と言われる正宗によって完成しました。 余談ですが正宗の在銘は短刀の4振りのみで刀は皆無であります。 相州伝の特徴は、板目肌に地沸が厚く付いて地景が交じり、荒沸本位の焼き幅が広い大乱れ、互の目乱れ、飛び 焼きや皆焼(ひたつら)などを焼き、金筋や稲妻など豊富な働きがあり、地刃に強さと変化が現れています。 これは炭素量が異なる硬軟の異種鋼を適切に練り合わせ鍛えているから刀としての強度と地刃の見ごたえある 景色を現わしているのです。しかし相州伝は巧みな卸金と地金に特性を持たせて鍛えた鋼を高温で熱し、急速 に冷却する難しい処理をしていた。故に、その鍛法を伝えて行くのが非常に難しかったので室町時代中頃には 衰退していきました。 |
美 濃 伝 (みのでん) |
美濃伝は五箇伝中で最も新しい伝法です。南北朝期に正宗十哲の1人、志津三郎兼氏が美濃国の志津へ移住し また、金重が美濃国関へ移住して共に相州伝をもたらし、もともと大和伝系であった美濃国で大和伝に相州伝が 加味された新たな作風が生まれました。そして南北朝時代~戦国時代といった争乱の時代に入り急速に繁栄して いきました。特に戦国時代にこれほど繁盛したのは、美濃国が東国や北陸などへの中継地で有ったことによる。 また、美濃国および周囲の国々に名だたる武将が群雄割拠していたので必然的にこれらの武器需要に応える拠点 となったのです。 美濃伝の特徴は、地肌はザングリとした板目肌で、棟寄りあるいは刃寄りの地肌は、柾がかり鎬高く、匂本位の 刃文を焼きますが、どこかに必ず尖り刃が交じります。直刃を焼いていても必ずどこかに尖り刃が交じります。 美濃伝は匂本位の伝法ですが、初期の兼氏や金重、直江志津などの刀匠は沸本位の相州伝の作風でありました。 南北朝時代初期に兼氏が没すると、弟子達は、隣の直江村へ移住して鍛刀しました。これらの刀工一派を直江村 の直江志津と呼びます。志津とは兼氏のことを指し、無銘の物で初代兼氏作と鑑定された物は「志津」と呼ばれ ます。この頃になると鎬地が柾がかり、尖り刃が目立ち地が白け気味になってきます。鋩子は独特な地蔵鋩子と なるものが多い。これは形がお地蔵さんに似ていることからこう呼ばれている。室町時代になると美濃伝の刀工 による作刀数は増大し、関の地に刀工が集中しました。直江志津の鍛冶も応永頃には振るわなくなり、度重なる 河川の氾濫にもより関などへと移住しなければならなかった。そして戦国時代になると関七流と呼ばれる7つの 分派が生まれ、その分派の7人の頭(かしら)が合議制により作刀が行われ、個人の刀工が勝手に作刀を出来ま せんでした。 関一体に住する美濃伝鍛冶の作刀を関物(せきもの)と総称します。また戦国時代の美濃鍛冶の 作刀を総称して末関物と呼んでいます。末関物は、ほとんどが戦国時代の大量の需要に応えるため簡素化された 数打物(かずうちもの)で、美的価値は低いが実用本位の作となっていきました。また有名な最上大業物である 兼定(二代 之定)や兼元(関の孫六三本杉)・木が3本ずつ並んだような刃文)や、兼房(かねふさ)により 兼房乱れ(けんぼうみだれ)と呼ばれる、焼き幅の広い五の目丁子の刃文など、新しい刃文が、生み出された。 戦国時代の膨大な刀剣需要に応え、美濃と言えば関という位に繁栄しました。 |