「人生を共に歩いてくださる神」
●ギリシャ神話(スフィンクスの問いかけ)
「朝は四本、昼は二本、夜は三本。これはどんな生き物でしょう?」皆さまはこの“なぞなぞ”の答えがわかりますか?正解は「人間」です。幼児の時は手足を使い“はいはい”して進み、大きくなると2本足で歩く。しかし、年を取ると、歩くのに杖を必要とし、それが見た目には3本足に見える。という訳です。
実はこれはギリシャ神話の中に出てくる話しで、旅人に対して投げかけられた、少し深い意味を持った問いかけなんです。詳しくは書きませんが、例えば、「朝は4本、昼は二本、夜は三本」この問いかけに対して、「これは私の一生です」と答えてみると、少しリアルに感じないでしょうか。
●作者不詳の言葉
また、こんな言葉があります。
「子供叱るな来た道じゃ、 年寄り笑うな行く道じゃ、 来た道、行く道二人旅、これから通る今日の道、 通り直しのできぬ道」。この言葉も人生のありさまを面白おかしく言った言葉ですが、特に「子供叱るな来た道じゃ、 年寄り笑うな行く道じゃ」という部分は、なかなか味わい深い言葉だと思います。
●聖書の言葉
一方で幼い時、老いた時を必ず通らなければならない私たちに対してみ言葉は次のように言っています。
イザヤ書46章3節、4節に次ぎのようなみ言葉があります。
『わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』
私たちは、小さい時は、親におぶられ、また、手を引いてもらって、色んなところへ連れて行ってもらいます。また、年を取れば今度は、誰かに支えられて、また、車に乗せてもらったりして連れて行ってもらいます。普通に考えるならば、どこか虚しい人生のように思わされます。しかし、神さまは、「私たちが生まれてから、年老いて死に至るまで、ずっと、私たちから離れることなく、私たちと共に人生を歩んでくださるお方。そして、時に、弱った私たちを背負ってくださるお方である」ということを教えてくださっています。
私たちは無力な存在です。自分の思ったように、願ったような人生にはなりません。でも、神さまが共にいてくださるからこそ、私たちは新しい喜びと希望をいただくことができるのです。
●聖書箇所のあらすじ
今日の聖書箇所には、エマオという村に向かって歩いている二人の弟子達の話しが描かれています。彼らはイエス様の十字架の死を目撃しました。そして、イエス様が復活なさったことを他の弟子たちから聞いていました。それだけのことを知っていたのにも関わらず、彼らはエマオに帰って行っているのです。しかも、暗い顔をしていたと書かれています。なぜなら、イエス様がイスラエルをローマ帝国から解放してくれると思っていたからです。彼らの願いは、イエス様の十字架の死によって挫かれてしまいました。そんな彼らのそばにイエス様は近づいて行かれ、彼らの目を開こうとなさたのでした。
イエス様は、道すがらご自身の死と復活が、聖書のみ言葉の成就であることを聖書のみ言葉を一つ一つ取り上げて説明していかれたようです。弟子たちはその時の様子をこう記しています。
『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』
目的の村に近づいたとき、日が暮れたので、イエス様は彼らと宿を共にすることにします。そして、一緒に、食事をしている時に彼らにとって劇的な時が訪れるのでした。
イエス様が、彼らの前で、パンを割いてお与えになったとき、彼らの目が開かれて、ずっと一緒にいたのがイエス様だとわかるのです。しかし、その瞬間イエス様は見えなくなるのでした。
●イエス様は今も一緒にいてくださっている
イエス様は、エルサレムからずっと彼らを追っかけてきて彼らと合流されたのではありません。また、彼らがイエス様だとわかった瞬間にイエス様は目的が達成されたので、次の所に行かれたということではありません。彼らの目を開くために、見える形でご自身をあらわされたのです。なので彼らがイエス様だとわかった時に姿が見えなくなったのです。このことは、忘れてはいけないことで、イエス様は見えないのですが、今も、私たちと一緒にいてくださっているのです。弟子たちの時のように現れてくださることはありませんが、イエスさまが今も一緒にいてくださっていることを忘れないで欲しいと思います。
●知識だけではだめ
キリスト教の単なる知識や、聖書の知識だけでは、本当の信仰者になることはありません。多くの人がイエス様の復活のことが知識で終わっています。イエス様はご自身が復活されたことが真実であるということを知って欲しいと願っておられます。
この弟子たちも、エルサレムで起こった出来事、イエス様が復活なさったということを他の弟子たちから聞いて知っていました。でも、それらは、彼らにとって深い信仰には繋がりませんでした。ですので、私たちも、いつも、聖書のみ言葉を読み、そこに教えと同時に、イエス様の姿を見るようにしなければなりません。そうすることで、弟子たちのように、心が熱くなるのです。また、復活がリアルになれば新しく生きる希望が生じてくるのです。
●イエス様の復活は新しい生き方を与える
私たちは、聖書と出会った時、はじめは自分なりの期待を持つものです。境遇が良くなるのではないか。人生が良くなるのではないか、願いが叶うのではないか。そういった願いをまず持つはずです。しかし、思ったようにいかない。むしろ、信仰を持ってもその願いはかなわないことに気づかされす。そうして信仰から離れてしまうこともあります。
この二人の弟子たちもそうでした。この二人の弟子たちのイエス様に対する期待は、弟子になることによって自分たちの境遇が良くなることでした。具体的にはイエス様がローマの支配からイスラエルと解き放ってくれることでした。しかしかなわないとわかったとき彼らは希望を失い帰っていきました。
しかしイエス様は彼らを放ってはおかれませんでした。聖書を解き明かされ、そして、ご自身が聖書に約束されているように復活されてたことを彼らにお示しになりました。そうすることで、彼らは、イエス様が願いをかなえてくださる以上の希望・目的をいただくことができました。
●神さまは人生の同伴者
私たちは四つん這いから始まり、最後には杖をついてあるくようになります。また人生の全てにおいて、うまく行かないことが沢山あります。時に、つぶされそうになってしまうことさえあります。でも、神さまは、私たちが弱い時、また、苦しい時、辛い時、私たちを背負ってくださっているのです。神さまは私たちの人生の最初から終わりまでずっと見守り、傍らにいて、私たちの人生を共に歩んでくださいます。そして、信仰が弱りそうなときには、私たちに問いかけ、諭し、目を開き、信仰を養ってくださるのです。
私たちは、親に手を引いてもらい、導いてもらっていました。大人になればそういうことはないでしょう。しかし、神さまは、ずっと、私たちの人生に深くかかわってくださっているのです。その神さまが望まれるのは、主が、今も生きておられ、約束通り、いつも私たちと共にいてくださっていることを喜ぶことなのです。
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