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◯リンカーンの演説
おはようございます。アメリカの大統領、エイブラハム・リンカーンを皆さまご存じかと思います。リンカーンは、南北戦争というアメリカを二分して戦った戦争で北の人たちを指揮した人です。このリンカーンについて、こんな“逸話”が残されています。南北戦争が終わりに近づいた頃、北部を強く支持する人々の集まりで演説するように求められました。その集会には自分の息子や夫を戦争で失った人も集まっていました。その演説の中で、リンカーンは、北の人なのに、なんと南の人々について、深い思いやりを持って語ったそうです。彼らが置かれている苦しい境遇や、その苦しみに心を寄せ、それを率直に言葉にしたのです。演説が終わると、一人の年配の女性が近づいて来て、敵に対してそんなに親切なことを語るべきではない、と大統領を非難したそうです。むしろ、南軍を地上から一掃し、一刻も早く戦争を終わらせることを考えるべきだ、と忠告しました。するとリンカーンはこう答えました。「ご婦人、敵を友にすれば、その敵を滅ぼしていることにならないでしょうか。」リンカーンが何を言おうとしたのかと言いますと、例えば、AさんとBさんが敵同士だったとします。AさんがBさんを殺せば、確かにBさんという人間はいなくなり勝利となります。しかし、それが本当の勝利なんでしょうか?もし、AさんがBさんと和解して友人になればどうでしょうか?敵であるBさんはいなくなります。そして、Bさんは生きているんです。マタイによる福音書5章44節~45節にこう書いてあります。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」ここでイエス様は、ただ、頑張って敵を愛しなさいとおっしゃっていないんですよね。大前提があるんです。「敵を愛する。それが、天の父なんです」そのことも教えてくださっているんですよね。今日、イエス様の譬え話を見ていますが、そこに現された神の知恵、愛を共に見たいと思います。
◯譬え話の内容
さて、今日の福音書ですが、これはイエス様が、祭司長やファリサイ派の人たちにおっしゃった譬え話なのです。ここに出てくる主人とは誰か・・・それは、神さまご自身です。では、農夫たちとは誰か・・・それは、イスラエルの民を霊的に導く役目を託された宗教指導者、特に、祭司長やファリサイ派の人たちのことです。そして、僕とは、神さまが遣わした預言者ということになります。もちろん、最後に遣わされた息子とはイエス・キリストです。まず、こう始まります。(マタイによる福音書21章33節~)『もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。』まず、主人がぶどう園を農夫たちに託すところから始まります。ここでのポイントは、ぶどう園そのものは主人がつくったということです。農夫は何もしていません。そのぶどう園を農夫に託します。主人が期待したのは何か・・・それは、美味しいぶどう、そして、豊かな収穫(農夫も主人もそれを食べる人も笑顔になるような実り)です。さて、収穫の時が近づいて来ました。主人は、僕たちを農夫のところに遣わし収穫を受け取ろうとします。ところが、農夫は、僕を袋叩きにしたり、殺してしまうんですね。ひどい農夫だ・・・聞いた人はそう思います。主人は、また、別の僕を遣わします。ところが、農夫は、同じように扱います。ここまできたら、主人が農夫を酷い目に合わせても不思議に思いません。でも、主人は、こう考えるんです(37節)。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』普通、息子を遣わしますか?わたしでしたら、絶対に、ありえないんです。それよりも、すでに、怒っています。でも、主人は息子を遣わせるんですね。ここに不思議に思える神さまの姿(というか心)が描かれています。敵を愛する神。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる父なる神さまとはこういうお方なんです。さて、主人は、自分の息子をぶどう園に送ります。「敬ってくれるかも知れない。」そう考えました。これは、最後まで関係を回復しようとする意志の表れだと思います。ところがですね、やはり、農夫たちは、その息子をも殺してしまいます。こう書いてあります。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。』(38節,39節)本当に酷い農夫ですよね。ここに、彼らの悪い心の本質が現れています。それは「主人から与った“主人の農園”という感覚が麻痺」し、「主人から与ったものを、自分のものにしたい」という欲が出て来たんです。というか、傍から見たらすでに“自分のもののように扱っていた”と思います。
◯ぶどう園は何を表しているか
イエス様のこの譬え、何を表しているのでしょうか?ぶどう園とは、イスラエルの家のことです。そして、農夫とは、彼らを導くために特別に任された宗教指導者達のことです。神さまは、ご自分の民としてイスラエルの民を選ばれました。彼らが繁栄し、良い実を結ぶことを期待しました。イスラエルの民は、神のぶどう園でした。でも、宗教指導者達は、民を正しく導くことをしませんでした。そのため、偶像礼拝が起り、不正が起り、民は苦しむようになったのです。神さまは、何度も、預言者を遣わしました。悔い改めて、神に立ち返り、神と共に歩むことを選ぶためです。でも、駄目でした。彼らは管理人でしかありません。でも、その管理人が“自分が主人”だと勘違いするようになっていました。というか、人間はいつでも神を置いて、自分が主人になろうとするのです。
◯本当の所有者は誰か
創世記を読みますと、神さまは、この世界を造り、地を従わせ、生き物を支配するようにと命じられました。つまり、「神さまの代理として、神さまがお造りになったこの世界を御心に適うように治める」のが人の役目なんです。神の願う世界(豊かな実りをもたらす世界)にするように託されたのです。これは「自分の所有物のように好き放題にしてもいい」という意味ではありません。でも、人間は、管理するように置かれただけなのに、神の世界を自分の好きなようにしているのです。ここに罪人の姿があります。人間は「主人」ではありません。この自然界も、また、身近な所では家族も、そして隣人も、全て神さまが、愛し所有しておられるものです。そして、家も財産も、そして与えられた能力も、神さまから与えられたもの(託されたもの)です。私たちは本当の所有者ではありません。神を畏れて生きる人は、それを神が託されたものとし、豊に用い、豊かな実を結ぶのです。
◯息子を殺す農夫
さて、ぶどう園の譬えでは、農夫は主人の所有するぶどう園を自分のぶどう園にしようとします。息子を殺せば、自分の所有になると考えたのでしょう。同じ様に、今まさに、祭司長やファリサイ派の人々は、イエス様を殺そうとしています。彼らは、神の民を自分の民と勘違いし支配していました。そして、目の前に、神の御子が遣わされてやってきているのに、イエス様を殺そうとしています。彼らは、独り子を排除して、自分が主人になろうとしているのです。でも、こんなことをした人がどういうことになるのかは誰にでも判ります。主人の忍耐を軽んじた彼らは、主人の怒りを買い、裁きを受けるのです。『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。』(40節)というイエス様の問いかけに、彼らはこう答えます。『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。』(41)そうなんです。これが私たちの世界では当然の報復です。しかし、敵をも愛する神、自分を迫害する者をも愛する神、どんな人にも太陽を昇らせ、雨を降らせたいと願われる神さまは、そうなさいませんでした。御子の死を通して、全ての人を救おうとご計画されていたのです。人の罪を受け止め、その罪の力を用いて、全ての人に救いの扉を開かれたのです。これこそ、誰もが想像もしなかった、神のご計画でした。
◯神の救いの計画
この罪の世界に対する神さまの裁きはあります。これは神の正しさです。宗教指導者達は「ぶどう園の主人は、農夫たちを殺すであろう」と考えました。実際に宗教指導者達はイエス様を十字架に架けます。でも、神さまは譬えとは違いました。神さまは、彼らを怒って滅ぼすのではなくて、悔い改めて神のもとに立ち返るように使徒たちを通して語られたのです(使徒言行録2章22節~)。神さまの裁きは確かにあります。それを「神はやはり怒って滅ぼす方なのか」と考えるのは間違っています。神さまは、その裁きの中に、イエス様の十字架という広い 広い救いの道を開かれました。そこには、御手を広げて罪人を招いている神さまの姿があります。そして、もはや、人は罪ゆえに裁かれるのではありません。裁きから救われるようにと、御子をお与えになった神さまの愛を拒んだので裁かれるのです。ヨハネによる福音書3章16節~19節にはこう書かれています。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。神さまが独り子をお与えになった理由は、御子の死によって全ての人が救われるためでした。これこそ、悪魔に打ち勝つ本当の姿ではないでしょうか?ヤコブの手紙3章15節~18節に次のような言葉があります。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。わたしは、この最後の言葉を見た時、平和を実現する人は、平和のうちに蒔くんだなって改めて思いました。今、世界は戦争をしていますが、本当は、平和を実現する人は、平和のうちに蒔くものなんですよね。すると、義の実が生じるんです(イスラエルの民の指導者は何をやっているのでしょうか・・・)。
◯逆の生き方
この世界では、私たちが普通に考えるのとは違うところに、豊かな実りが生まれることがあります。それが神の国の実りだと思います。憎しみのある処に愛を注ぐ。受けることよりも与えることを求める。尊敬されることよりも相手を尊重することを大切にする。自分の功績を誇るのではなく、神さまの恵みとして感謝する。そのような生き方の中に、平和の実、義の実が結実していくんですね。その時、私たちは、神の国の素晴らしさ、美しさを感じることができると思います。実際に神さまは人の目には不思議に見える業をなさいました。御子の死を通して、赦しを与えられました。そして、死の向こうに永遠の世界を準備してくださいました。ですので、聖書は、見えるものだけに心を奪われないように、むしろ、見えない神の世界に目を絶えず向けるように勧めています。神の国は、十字架で死なれ、そして復活された、イエス様に託されました。そして、イエス様を信じる信仰者は世の光、地の塩として歩んでいます。私たちにとってのぶどう園とは、社会であり、家族です。私たちは、イエス様、聖霊なる神さまの助けを頂き忠実な僕として治めていきます。すると、善い実りを周りに見ていくことができます。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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