宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年9月20日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝

ヨナ記3章10節~4章11節
フィリピの手紙1章21節~30節
マタイのよる福音書20章1節~16節


「お 勘 定 !」

説教者 江利口 功 牧師

◯念願のお寿司屋さん

2年前になりますが、東京で牧師の研修がありまして、泊りがけで東京に行きました。その時は、いつもより早く現地入りしたんです。というのも、理由がありました。それは、豊洲市場にずっと行ってみたかったお寿司屋さんがあったからなんです。もちろん、くるくる回るお寿司屋さんではありません。本格的なお寿司屋さんです。しかも、豊洲市場の中にあるお寿司屋さんですから期待できるのが分かりますよね。普段行くのは回るお寿司屋さん。でも、今回はカウンターの前に板前さんがいて、その場で握っては、私の前に置いてくださるんです。時には、目の前にあるケースの中にあるネタを指さして、「これどんな風にして食べると美味しいですか」と聞いて美味しい食べ方を教えてもらうと、「じゃあそれでお願いします」なんて会話しながら頂きました。ちょっと、通な感じですよね。ほんと美味しかったのですが、こういうお寿司屋さんで怖いのが値段の書いていない「時価」のネタですよね。今回、いくつか値段の書いていないものを注文しましたので、ちょっと会計の時には「いったいいくらになるんだろう」とドキドキしました。でも、大丈夫でした。そこそこのお値段はしたのですが、想定内で、美味しく、満足して帰ることができました。ところで、お寿司屋さんで、会計をお願いする時、何といいますか?「おあいそ」って言いますよね。この「おあいそ」という言葉は、もともとはお店側の人が会計の時に使う言葉だったそうです。それを何時からか、お客さんの側も「おあいそ」と使うようになりました。ただ、会計をお願いする言葉として、他にこんな言葉あります。「お勘定お願いします。」もそうです。今の時代、レジに行って伝票を渡せば会計してくれます。でも、席で会計をお願いするようなお店では「すみません、お勘定お願いします」って言いますよね。今日の説教題も、まさにその時の言葉「お勘定!」です。お勘定というのは「決算」ですよね。「私がどれだけ食べたのか」「それに対して私はいくら払うのか」をはっきりさせるのが「お勘定して」です。でも、実は、私たちはお金の支払いだけではなく、自分の人生についても「勘定」したくなります。特に神さまとの関係において、私たちは、自分がしてきたことを差し出したくなる、そして正しく報いて欲しいと願います。今日の聖書箇所は、この「お勘定」という言葉を通して読むと、よく見えてくる話なんです。

◯譬え話のあらすじ

イエス様の譬え話はこう始まります。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」主人は「朝早くから働いてくれる人」と1デナリオンで契約します。「9時頃」に行ってみると、仕事がなくて立っている人がいました。主人は、その人たちも雇います。「12時、3時」にも出て行って。そこにいる人達を雇います。なんと、「5時」になっても雇ってくれる人がいなくて人が立っていたんです。その主人はその人たちをも雇います。朝一番は「1デナリオン(当時の1日の日当)」、9時からの人は「相応しい賃金」その後の人には「いくら払うとは言っていません」。まあ、イエス様の話しを聞く人は、朝の人から順番に安くなっていくのだろうなぁ・・・そう思います。さて、夕方になり決算の時が来ました。主人は、監督を呼び賃金を支払わせるのですが、後から(つまり遅くから)雇われた人から順番に払わせます。イエス様の譬えでは、この話しの鍵となっています。朝から働いた人たちに、ほとんど働かなかった人がいくら受けとるかを見せるんです。あえて見せて反応させるんですね。イエス様の譬えでは、5時から来た人は、1デナリオン(一般的な一日の労働の対価)を貰いました。それを見た「朝から働いた人」は、“もっと多く貰えるだろう”と思いました。「勘定」し始めたんです。誰だってそう思います。でも、彼らも同じ1デナリオンだったのです。そこで、彼らは不平を言います。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』と怒りました。あの人達と違って暑い中辛抱して働いたのになぜ・・・と文句を言ったんですね。正当な訴えです。それに対して、主人はこう答えます。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』この人達は、朝に1デナリオンの契約を聞いてその時は不満ではなかったんです。むしろ働き口があったと喜んでいたと思います。ところが、仕事が終わり、5時からしか働いていない人が1デナリオンを貰っているのを見た瞬間、自分の働きを「勘定」し始めました。もっともらえる!そう思いました。彼らが最初に賃金を貰っていたら、こんなことにはなっていません。

◯みんな「お勘定」

 このイエス様の譬え話を理解するには、なぜ、この話しをなさったのかを知る必要があります。実は、19章の話を重ねてみると、それが良く分かります。まず、イエス様の前にやってきた金持ちの青年の話です(19章16節p.37)。金持ちの青年は、(16)「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」そう尋ねます。彼の中にあったのは、功績思想です。神さまは良い人を天国に、悪い人を地獄に送る・・・そんな思想です。ですので、「自分が善い事を沢山すれば(良い人であれば)永遠の命を得ることができる。」そう思っていました。彼の功績思想は、イエス様の答えに対する彼の答え方にも表れています。イエス様が、十戒の掟を示された時に彼は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と応えているんです。彼は自分の評価で天国に相応しいかどうかが決まると思っていました。恐らく、「いい加減に生きていた人」ではなかったと思います。「ずっと言いつけを守る良い人」だったと思います。でも、彼は気づかないといけないことがありました。彼は、「自分はこれをした、あれをした。いいつけを全部守って来ました・・・そして、人生の最後に、神さま、お勘定お願いします」と言いたいわけです。神さまから「よくやった」「褒美として永遠の命を与えよう」そう言ってもらえると思っていました。でも、イエス様の言葉がささります。(21)「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」そうおっしゃいました。すると、彼は悲しんで帰っていきました。彼は、心の深いところでは「神」ではなく「富」に信頼を置いていたんです。彼は、人との関係においては良い人だったと思います。でも、神さまとの関係は正しくなかったんです。「神さまを愛すること」「神さまを畏れること」「神さまを信頼すること」それができていなかったんです。できなかったんです。そのことを知って彼は帰っていきます。

イエス様の言葉が彼の内面を浮き彫りにしました。私たちは、自分の功績によって天の国に入ることはできません。それは、らくだが針の穴を通るようなものです。そうではく、「人にはできないが、神にはできる」それが福音だったんです。さて、このやり取りの後、ペトロがこんな風に言いだします。あの青年は全てを捨てることはできなかった。でも、わたしは全てを捨てました。あの青年はあなたに従わなかった。でも、わたしは従いました。

イエス様は、わたしは天の国で何を頂けるのでしょうか。ペトロもまた神さまの前に自分の功績を持ち出して、「お勘定してください!」「相応しい報いをください」と言ったんです。イエス様は、確かに、報いが与えられると約束されました。でも、その前に、改めないといけないこと、考え方を変えないといけないことがありました。それは、自分の功績を持ち出して神さまの前に出るのではないということです。そのことを教えるためにイエス様が譬え話をなさったのですが、それが今日の福音書だったんです。神さまの愛は、全ての人に注がれます。そういうものなんです。その大きな愛の中にわたしたちは入れられています。私たちに必要なのは「恵みによって生かされていることを喜び」行いにおいては「正しいことをしたまでです」と僕のように謙遜になることです。でないと、恵みを自分の功績として捉え、また、「お勘定!」という功績思想は、恵みの神さまの愛を見えなくしてしまいます。

◯福音とは

聖書にこう書いてあります。ローマの信徒への手紙3章22、24節です。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。最初に、お寿司屋さんの話をしましたが、値段が書いていないと怖いですよね。「本マグロの大トロ」とか「あわび」とか、注文したらいくらになるかわかりません。当然払えると思って「大将、お勘定!」と言ったら、桁が違うような金額だったらどうでしょうか?到底支払いできない金額が提示されたらどうでしょうか?実際に、人生の最後に「神さまお勘定!」そんな思いで神さまの前にでると、驚きの伝票を見ることになります。神さまの前に私たちの負債は大きすぎるのです。それを知らずに“呑気”に食べているのが神さまを知らない人の姿です。でも、神さまは、そんな私たちをも憐れんでくださっていて、ちゃんと、救いを準備してくださったんですね。ローマの信徒への手紙5章8、9節です(新約279頁)・・・。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。神さまは、その私たちの弱さ(罪深さ)を知っておられて、私たちの力では到底神の国に入れないので、イエス様を通して救いを与えてくださいました。もちろん、「何もしなくても入れますよ」「ただでいいですよ」というのが福音ではないんです。支払いはあるのです。でも高額すぎるのです。そこで、次元の違う支払いをイエス様がしてくださった・・・これが福音です。それは、“超お金持ち”が支払ったのではなくて、“超愛と憐れみに満ちた神の独り子イエス様”が支払ってくださったものです。そして、救いを知った私たちであっても、「神さま、お勘定!」という思いはなくさないといけません。「当然のことをしたまでです」この思いが大切です。

◯神さまは私たちの行いを忘れない

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とイエス様はおっしゃいました。これは、「私は早くから働いた」「長く働いた」「多くを捨てた」そういった行いが必要ないということではないんです。神さまは、私たちの行いをちゃんと見てくださっています。ただそれを「勘定」しない人「帳簿」につけない人になるんです。神さまが覚えてくださっているからです。私たちはただ「わたしは言われたことをしたまでです」と言えばいいのです。神さまは、将来報いてくださいます。そして、神さまが一番喜ばれる生き方とは、「全てを捨てて、イエス様のために生きること」です。これを、是非、目指してください。

◯最後に

今日、覚えて頂きたいのは「神さま、お勘定!」という功績思想を捨てることです。救いにおいてもそうですし、信仰者の歩みとしても同じです。たぶん、今日の譬えのような場合、私たちでしたらこうするのではないでしょうか。朝から働いた人から順番に渡して、最後の人には「あなたにも1デナリオンあげるよ。でも、黙っときや~、みんなに言ったらあかんで~」そう言いって渡そうとするのではないでしょうか?でも、これではダメなんです。神さまの国は、私たちの生き方の「勘定」によって変化するものではありません。神さまの愛は、妬みを起こさせるほどの愛です。ヨナの話もそうですし、放蕩息子のお兄さんの話もそうです。その神さまの一方的な愛が分からないと、恵みが与えられたり、試練が与えられたりする度に、私が善い事をしたから、悪い事をしたから、そう言う風に受け取ってしまいます。神さまは、良いものにも悪いものにも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせるお方です。今日も、皆さまを憐れみ、慈しみ、愛してくださっています。救いは、全ての人に向けて与えられました。全ての人が神さまの前に罪人だからです。平等だからです。私たちは生まれながらに、到底、支払えない負債を抱えています。ですので、赤ちゃんでも入れないんです。マザーテレサでも入れないんです。みんな、イエス様の贖いによって入れるんです。神さまの愛は妬みを引き起こすほどの愛です。その愛が、私たち一人一人に今も注がれています。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。