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◯「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」
おはようございます。
“仏の顔も三度まで”そんなことばが古くからあります。なんだ、仏さんって結構すぐ怒るのね(気が短い?)・・・と思っていたのですが、ちょっと、違いました。「仏の顔も三度まで」、これは、「同じ過ちは三回までしか赦されませんよ」という意味ではないそうです。これは、人に対して無礼なことをし続けていたら駄目ですよ(気を付けなさいよ)という人を戒める言葉でした。一応、仏教を擁護すると、仏さんは赦し続けてくださる方だそうです。
◯私たちはいつも忍耐している
先週、私たちは、教会というイエス様の群れの中で、罪を犯す人とどう接するのか?ということを学びました。その中心になければならないのは、「忠告」ではなく「取り戻したい(失いたくない)」という思い。さらには、心を霊的にして、祈りながら人の罪と向き合うのが大切だということでしたよね。「失ってもいい人」ではなく「失いたくない人」そう思って「赦し」を携えてその人の処に行く・・・そのことが大事なんですね。「赦す」ことは霊的な事柄なんです。では、今日の御言葉は何を教えているか・・・それは「何回赦すのか」「何回赦さなければならないのか」ということではなく「赦すとは何なのか」ということです。そして、どうすれば、赦せる人となるのかということでもあります。では、早速、今日の福音書を見ていきたいと思います。新約聖書35頁、マタイによる福音書18章21節~35節をお開きください。さて、先週の御言葉の箇所では、「忠告」とか「得る」という言葉が使われていますが、実は、「赦す」という言葉は一度も使われていないんですね。不思議に思いませんか?イエス様は相手が悔い改めるなら「その人を得る」「その人は繋がれる」ことになる・・・そのようにおっしゃっています。相手を得るため(失わないため)には「赦す」ことが必要ですが、でも、それは、「得る」「失わない」思いがあるからなんですね。ペトロはそこは、人間らしく反応しています。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねています。ペトロにとって、そういう「兄弟」がいたのでしょうか?同じ、兄弟姉妹であっても私は耐えている・・・そんな経験がいつもあったのでしょうか。私たちも、やはり、「赦さなくてはならない」と聞けば、無理だ・・・苦しい・・・そんな風に思うのではないでしょうか。夫、妻であったり、教会の兄弟姉妹であったり、また、仕事上の顧客、また、生徒であったり、私たちは、多くの人に対して忍耐していることって沢山あると思います。そんな私たちにイエス様は大切なことを教えてくださっています。
◯聖書の解説(憐れみ深い王)
今日の聖書箇所を見ますと、イエス様は、一つの譬え話をなさいました。それは王と負債を抱えた家来の話です。『ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントンを借金している家来が、王の前に連れて来られた。』(23節,24節)1万タラントンとは、今の時代で言えば5,6千億円です。頑張って返せるお金ではありません。というか、イエス様は、「人間の力では、到底返すことなどできない大きな負債」という意味で、大きな 大きな数字、一万タラントンという数字を使っておられます。ですので、この譬えの家来はもちろん返せる状態ではありません。王は、家族を売れ!家を売れ!持ち物を全部売れ!と言いますが、もちろん、そんなことをしても到底1万タラントンには及びません。王が言いたのは、あなたの人生の全ては終わり(あなたの家族も終わり)・・・そんな通告です。この家来はこう答えます。「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26節)返せるわけがありません。そこで王はどうしたのでしょうか?王は負債を全部免除したんです。人の力では絶対返せない負債、それを、王は憐れみ、赦してやったのでした。それは、この家来を「得るため」であった・・・と言えると思います。
◯聖書の解説(憐れみの全くない家来)
憐れみ深い王に、全ての負債を免除された家来なのですが、とんでもないことをします。何と、自分に100デナリオン(約100万円)の借金のある仲間(仲間ですよ)を見つけるや否や「借金を返せ」と首を絞めて怒りを示したわけです。王は、まずこの僕の返す言葉を聞いあげたんですよね。しかし、この家来は話を聞かずに首を絞めたんです。そんな人いませんか?赦すという概念の無い人。相手を見つけたら暴力をふるって取り返そうとする人。そのような心の貧しい人。それがこの家来だったのです。さて、その家来は、負債のある“仲間”を牢に入れてしまいましたが、その姿を、別の“仲間”が見ていて、心を痛めました。彼らは、王にそのことを申告します。すると、王はその家来を呼びつけました。多分、怒っていたと思います。そして、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(それが当然じゃないか・・・)。そう言いました。そして、その家来を「牢役人に引き渡した」とあります。これは、単なる牢屋に入れたのではなくて、もっと厳しい牢獄、拷問とかするような厳しい牢獄に入れてしまいました・・・という意味です。彼は生涯、いや、永遠に責め苦の世界に閉じ込められてしまいました(憐れみの全くない世界に行きました)・・・そんな感じです。
◯赦すとは相手を大切に思うこと
この王様は、「私がお前を赦したようにお前も“仲間”を赦すべきではなかった?」とは言わず、「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の“仲間”を憐れんでやるべきではなかったか」とおっしゃっています。「赦す」とは「相手を憐れむこと」。「相手を憐れむこと」とは「相手を愛すること」です。そこから、赦す心は生まれてきます。相手を愛する=赦すとか赦さないの選択がないという感じです。もちろん、その人の忠告の言葉にも愛があります。ペトロは、「赦す」=「忍耐」だと捉えました。でも違うんですね。でも仕方ありません。まだ、イエス様の十字架を知らないし、イエス様によって「赦し」を体験していないからです。これは、普通の人間的な思いから出た言葉です。でも、イエス様の赦しを受け取ったペトロは変わったと思います。イエス様の言葉に次のような言葉があります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」イエス様は、まず、私たち一人一人の大きな罪、自分の力では到底贖えない負債を全部赦してくださいました。そして、クリスチャン同士(教会員同士)、お互いに赦しあいなさいと命じておられます。そうすれば、そのクリスチャンの群れ(教会の群れ)を見た人は、そこに神の業を見るというのです。もちろん、その時に、大事なのは、まず、神さまが私たちをまず赦してくださった。返せない大きな 大きな負債を赦してくださった、しかも、ご自身の御子に全ての負債を負わせることによって、私たちを赦してくださった・・・このことを知る必要がありますね。また、その愛に満たされる必要があります。
◯主の祈りから
私たちは主の祈りでこう祈っています。「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」私たちは、人の負債を赦せる人になれることを祈っています。もし、自分の力でいつもそれが出来るのであれば、祈る必要はありません。罪人の私たちには恐らくその力はないと思います。愛せる人に対しては出来るかもしれません。でも、敵を赦すことは私たちには、ほぼ無理だと思います。でも、イエス様が、神を神とせず、人を愛せず、自分中心に生きていた私たちを赦すために、大きな犠牲をまず払ってくださった・・・。なので、私たちも赦せる者となりたい、あなたのように・・・そんな思いで祈っているのです。私自身、昔は、憎む相手を赦すどころか、大きな罰を受ければいい・・・そんな風に思う人でした、でも、今は、イエス様の大きな赦しを頂いて、さらに、聖霊なる神さまが私の心の中で信仰を呼び起こしてくださるので、心底、憎むのではなく、赦せない心がありながらも「そんなあの人も天国に入れてあげてください」と思えるようになれました。そして「赦せる者となりたい」そう願う人となりました。神さまは、人を変える力があります。変え続けられるのが私たちです。私たちに必要なのは、まず、大きな 大きな負債を、神さまが赦してくださった・・・その喜びの中で生き続けることです。主の祈りでは「私たちの罪をお赦しください」と祈っています。これは、天国に行けるとか行けないという赦しではないです。なぜなら、イエス様が、天国に入れるように死んでくださったからです。相手を赦せないならあなたは地獄に行きますと主はおっしゃっていません。ここが譬えと違います。あなたは全て赦されている。・・・これが、この譬えを覆されたイエス様の福音です。イエス様の福音が私たちを赦せるものへと変えるんです。
◯あるクリスチャンの心の傷
さて、最後に、あるクリスチャンの方の話をして終わりたいと思います。その方は、オランダ人のクリスチャンです。その人は、第二次世界大戦後の冷戦の時代、東ヨーロッパの共産主義国に聖書を密かに持ち込み、クリスチャンを励ましていた人でした。宣教のために生きているその彼には、一つの辛い過去がありました。彼は、若い頃、オランダ軍の兵士として、インドネシアに派遣されていたのです。インドネシアがオランダから独立しようとしていたからです。それを鎮圧するために兵士として派遣されていました。つまり彼が何をしたのかは分かるかと思います。その戦闘で、彼は足を負傷し、病院に運ばれたのですが、そこで聖書と出会い信仰を持ったんです。負傷してオランダに帰国後、彼は、宣教のために聖書を共産圏に運び、クリスチャンを支えていました。でも、どうしても取り除くことのできない罪責感が彼にはありました。彼が、抱えていた大きな心の重荷とは、インドネシアで兵士として敵を鎮圧してきたことです。クリスチャンである彼の心は痛んでいました。その彼は、ついにインドネシアに行く決心をします。そして、かつて自分が戦った人々に仕えようとしたのです。しかし、どれほどその人々のために働いても、彼の良心の痛みは消えませんでした。そして、彼は、彼が最も訪れることを恐れていた場所、ウンガランという街に行く決心をします。そこには、かつて彼の所属していた部隊の司令部が置かれていました。彼は、自分を奮い立たせるようにして、その街の一本道を歩いて行きました。モスクの前を通り、かつてオランダ軍が兵舎として使っていた、コの字型の大きな建物へと向かいました。その建物は、新しく学校として使われていました。かつて訓練をしていた兵舎の中庭に行くと、そこに、着古した服を着た子供たちが遊んでいました。彼がその様子を見つめていると、八歳くらいの一人の少女が突然、遊んでいた仲間たちの輪から飛び出してきました。ほかの子供たちは遊びをやめ、何が起こったのだろうというように、その少女を見つめていました。少女はまっすぐ彼のところまで走ってきました。そして、小さな手で彼の手を握り、彼の目を見上げて、にっこりと微笑んだそうです。そして、その少女は、また友だちのところへ走って戻っていきました。彼は、その場に立ち尽くしました。頬には涙が流れていました。その時のことをこう記しています。彼は、その時、イエス様を感じたそうです。こう証ししておられます。「私には分かったんです。あのとき、誰が私のところに来てくださったのかが。イエス様でした。そして、イエスが私にこう言ってくださったのです。『アンドリュー、私はあなたを赦している。』だから今度は、あなた自身を赦しなさい。そして、この美しい人々に、喜びをもって仕えなさい。』」彼の心の重荷は解き放たれました。彼はそれからずっと人に仕える生き方をしました。神さまの赦しの言葉は、本当に愛の言葉です。イエス様の譬えでは、王に赦された家来は、憐れみのない行動をします。でも、それは譬えであって本当は、イエス様を通して完全に罪が赦されたんです。私たちが、何度罪を犯そうと、それを悔いる私たちを神さまは赦し続けてくださいます。神さまの憐れみ、愛は、その人の心を解放しその人を愛に生きる人に変えて行きます。これが福音の力です。神の赦しは、私たちの心を解放し、人を愛する人に変えてゆくのです。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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