宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年9月6日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝

エゼキエル書33章7節~11節
ローマの信徒への手紙13章8節~14節
マタイによる福音書18章15節~20節


「失わないために」

説教者 江利口 功 牧師

◯ルーツ

おはようございます。

数年前から、我が家の子供達が、長崎の私の父方の実家に行きたいと言い始めまして。私としてはちょっと困っているんですね。というのも、私は父親とは縁がなくて、幼稚園の頃から別に暮らしていたんです。母は女手一つで、私たち兄姉弟3人を育ててくれまして、本当に頑張ってくれました。そういうのもあって、私はあまり会いたいとは思わないんですね。でも、子供達は、とにかく、江利口という珍しい名前に興味があるのでしょうか、長崎に行こうと計画を練っているようです。正直、私はいい気持ちになれませんでした。でも、家族は「なんで?」って私に言います。私が説明しても納得してもらえないので、多分、私の性格が歪んでいるんでしょうね(;^_^A。もちろん、父親としては敬っているんですよ。憎んでいるわけではありません。ずっと関係がなかったので会いたいという風にならないだけです。今、母親が生きていていたら、色々と話ができて、私の気持ちの整理もできたのでしょうが、今はそれもできません。会わなければならないのなら、会いますし、話し合う必要があるなら、話し合います。「和解」することも大事なんだなって思うのです。今日の福音書を読んでいて、「今の私にはないものに気付きました」それは何だと思いますか?

◯失いたくない

 さて、今日の福音書ですが、イエス様は弟子たちにこうおっしゃっています。『兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。』(マタイによる福音書18章15節)。そして、それでも駄目だったら、2人、3人で、そして、それでも駄目だったら、教会に申し出なさい・・・。それでも駄目だったら、異邦人・徴税人と同様にみなしなさい。そうおっしゃいます。私たちは、この箇所を読んで「忠告」という単語が使われていますので、「和解」のこと、「和解のステップ」みたいな感じで読めると思うんです。もちろん、そうなんです。でも、このイエス様の言葉の大前提がありまして、それは、その相手を“失いたくない”という思い(願い)なんです。イエス様は「その人を裁くために行きなさい」とおしゃっているのではなく、「兄弟を得るために」言い方を変えますと、「兄弟を失わないために」行きなさいとおっしゃるのです。今日の聖書箇所はマタイによる福音書の18章15節からですので、是非、お手持ちの聖書を開いてください(35頁)。実は、マタイによる福音書18章全体には一つのテーマがありまして、それは、「滅びることを願わない神さまのお姿」が示されているということです。特に、今日のこの聖書箇所の前は、失った一匹の羊を探し求める羊飼いの話が(その羊が見つかったら大喜びする羊飼いの話)です。14節にはこう書いてありますね。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。この後に、今日の話があります。そして、次週の話へと続いて行くんです。ですので、今日の聖書箇所のポイントは、どう和解するのかというステップの大前提として、「失いたくない」という神さまの御心、そして、群れ全体の思いがあっての話であるということなんですね。

◯教会は赦しを与える場所

 さて、今日の聖書箇所ですが、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と始まりますが、最初に「兄弟」とありますよね。当時、「兄弟」という時、もちろん、「兄弟」と言えば家族を意味するのですが、他に、「信仰共同体」のメンバーのことを「兄弟」という風に言っていたんです。ですので、ここでは、イエス様を中心とする弟子達の共同体の話をしておられます。個人的な話ではありません。ちなみに、イエス様は、三つ目のステップで「教会」という単語を使っておられますが、これはギリシャ語でエクレシアという単語が使われていまして、これは、「教会という建物」の意味ではなくて、「集まり」という意味です。このエクレシアという単語は、福音書の中では2箇所だけ使われていまして、一か所はここで、もう一か所は、この前に読みました、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシア、生ける神の子」と、告白した時です。その時、イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。この時、「教会(エクレシア:集まり)」という単語が出てきます。つまり、イエス様を「メシア(救い主)」そして「生ける神の子」であると告白する私たちの集まりこそが教会なんです。イエス様は、信仰告白の上に教会を建てるとおっしゃっていますが、私たちのこの集まりは、イエス様を「神の子、救い主」と告白している群れなんですね。また、イエス様は、ペトロ(教会)に天の国の鍵を授けられました。これは、罪の赦しを与える権威です。教会で罪の告白をする人は洗礼の恵みを受けます。天国の入口は教会にあるということになります。さて、私たちの教会が大切にしないといけないことは、群れの中から一人も失われないことです。招くことも大事、でも、招いた人が来れなくなるのはもっと悲しい出来事なのです。その躓つまずきにならないように私たちは意識しないといけないということになります。

◯厳しいお話

 実際の羊飼いの人が書いた本に、ちょっと面白い話がありましたので紹介します。その人は何匹もの羊を飼っていたのですが、その羊の群れに、とても困った雌の羊が一匹いました。毛並みも良くて元気な羊でした。長所が多いなかで、一つ欠点がありました。それは、その羊は落ち着きがないんです。柵を抜け出しては、別の場所の牧草を食べに行くんです。別に、空腹でもないんです。むしろ、柵の外の牧草の方が良いわけでもないんです。とにかく、何度も連れ戻しても、柵を抜け出す羊で、羊飼いの教えを学ばないんですね。問題は、抜け出すことだけではなくて、その羊の子供たち(子羊)も柵を抜け出して違う場所に行くようになってしまったんです。さらに、他の羊も同じように外にでるようなってしまいました。一匹の羊によって群れが乱れ始めたんです。その羊飼いは、我慢し続けました。他の羊と同様にその羊のことを大事に思っていたのですが、このままでは、群れがダメになっていく・・・彼女を取り除かなくては・・・そう考えざるを得なくなりました。この羊飼い、どうしたと思いますか?その羊を屠って食べたんです。これは、本当に苦渋の選択だったと思います。でも、群れのためにそれを選択したんですね。

◯厳しさと憐れみ

 今日のイエス様の御言葉も厳しさがあると思います。教会が言うことを受け入れないのであれば、その人を異邦人か徴税人のように扱いなさいとおっしゃっています。でも、この厳しさは、相手が嫌いになったからではないですね。群れを守るためです。その人が正しく神さまと繋がるため、その人が神さまと繋がり続けるためです。ただ、私たちは、マタイという弟子は徴税人であったことを知っています。また、イエス様は徴税人と一緒に食事をされていました。つまり、イエス様にとっては、異邦人・徴税人とはおっしゃっていても、最後まで、救いに招きたい人たちであることには変わりないんですね。橿原教会もまた、イエス様を羊飼いとする羊の群れですよね。ですので、イエス様が招きたい人が来られる教会、また、この群れの一人一人が互いに大事にしあう教会であって欲しいです。余談ですが、宣教に対しても同じだと思います。「人数を増やさなきゃ」という思いが宣教の原動力になっては駄目ですよね。イエス様も私たちも「失いたくない羊を集める」そんな思いが中心にあるようにしたいですね。ですので、イエス様が最後におっしゃった言葉はとても大事だと思います。イエス様は、こうおっしゃいました。マタイによる福音書18章19節20節をご覧ください。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」つまり、今日の聖書箇所は、霊的なことが中心となって読まなくてはならないということですね。そして、先ほども言いましたが、「私たちの家族、親戚、また、周りの人達・・・その人たちが滅びに至らないように」と切に祈り続ける教会でありたいですね。

◯福音の中心は何か

 さて、最後になりますが、今日の聖書箇所から、「失いたくない」という思いが土台にあって行動しなくてはならないこと、また、霊的な救いを絶えず祈り続けることをお話してきたのですが、最後に、「失いたくない」と思い、人となって私たちの所に降って来てくださったイエス様の事をお話して終わりたいと思います。教会はイエス様を羊飼いとする群れですよね。羊は羊飼いがいないところに集まって来るでしょうか?羊飼いがいて、そこに集まって来るのが羊ですよね。私たちの教会の中心には何があるでしょうか?イエス様の声です。今日の聖書箇所のすぐ前には、迷い出た一匹の羊を探す話でした。その譬え話では「99匹いるから、1匹くらいいいか・・・」ってなっていません。良い羊飼いは、失われた羊を必死になって探します。それは、失いたくないからですよね。羊飼いにとって、どの羊はとても大切なんです。もちろん、イエス様は、羊の話をしておられるのではありません。「私が譬えるこの迷い出た羊とはあなたのことなのです」そうおっしゃるんです。私たちは、初め、神さまを知らず、神さまから離れていました。好きなように生きていました。でも、その私たちの所に、イエス様の福音が誰かの手を通して近づいて来たんです。その内容は、悔い改める心を呼び起こす声。同時に、そのあなたの罪は赦されるという声です。それは、弟子たち、イエス様を信じる人達が携えて来た福音です。でも、その前に、イエス様は、ご自身が、人となって天から降って来てくださいました。「神の前に滅びの状態にある罪人」を救うためです。イエス様は、「失いたくない」という思いで来てくださいました。神さまなのに人となり、貧しい姿にまでなってくださったんです。イエス様は、私たちの罪を示されました。そして、神さまと和解するようにと願われました。でも、人はそのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。そんな彼らをイエス様は「もう要らない」とはおっしゃいませんでした。「彼らを赦し給え」と父に祈られました。「失わないためです」。そして、私たちと神さまとの関係が回復するようにと、私たちの全ての罪を背負って十字架で死んでくださり、ご自身の義を私たちにくださったんです。その十字架の姿は、私たちの心を悔い改めに導く力となりました。今日の福音書を読む時に、「自分に罪を犯した人をどう悔い改めに導くのか・・・」そのステップが記されています。でも、それを読む時に、イエス様ご自身が、「罪を犯した人を得るため」どのようなステップでわたしたちに近づいてきてくださったのかを思い起こす必要があると思います。すると、「赦せない私」に対して「赦す神さま」の大きなご愛が見えてくると思います。わたしの目にあなたは高価で尊い。あなたを得るために人を身代金として、また、諸国を代償にしてでもあなたを助ける。そう思ってくださっている神さまの愛を受け止めることができると思います。今日の話は、イエス様を信じ告白する群れの話です。日曜日の礼拝の中で、私たちはそのイエス様の声を聴きます。私たちは、イエス様を知り、そして、イエス様の教えを聴きます。そうして成長していく群れです。