宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年8月30日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝

エレミヤ書15章15節~21節
ローマの信徒への手紙12章9節~21節
マタイによる福音書16章21節~28節


「苦難を通る神」

説教者 江利口 功 牧師

◯マザー・テレサ

おはようございます。マザー・テレサというカトリックのシスターをご存じだと思います。インドのコルカタ(旧、カルカッタ)という町で「神の愛の宣教会」を創立して、貧しい人たちのために尽くされた方です。1997年9月5日にマザー・テレサは天に召されたのですが、彼女の葬儀はインド政府により国葬として行われ、宗教の枠を超えて彼女の生き方は賞賛されました。マザー・テレサは1928年に修道会(ロレトの修道会)に入り、1946年9月10日、列車で移動している時にイエス様からの直接的な啓示を受けます。それは「最も貧しい人々のところに行きなさい。私をそこに運びなさい。私の光になりなさい」という召しでした。その後、彼女は、教会の許可を得て、2年後にコルカタへと向かいました。そして、病気の人、死を目前にしながら誰にも顧みられることのない人、路上に取り残されている人、そういった「最も貧しい人々」のところで愛の奉仕をし始めたのでした。彼女は、ただ、貧しい人に食べ物や薬を与えようとしたのではなかったんです。彼女は、「自分なんてこの世の生まれてくる必要がなかった」「自分なんて誰からも愛されていない」と思う人に愛を届けることを大事にしました。ある時、70歳を過ぎたくらいの日本人の老人がマザー・テレサの施設を訪れ奉仕をしていました。現地の人がどういう姿なのかは想像できるかと思いますが、一人の老人の食事の世話をしている時、その人は、最後の晩餐で弟子たちの足を洗うイエス様の光景が浮かんできたそうです。そして、その人の前にいる人を見ると目に涙があふれていました。その涙に光を見た時に、「この老人は、人間の姿を借りた神さまではないか」と感じたそうです。マザー・テレサは良く「目の前にいる貧しい人や病気の人たちに触れることは、イエス・キリストに直接触れる喜びを戴くことです」と言っていたそうです。

◯マザー・テレサの渇き

彼女は本当に貧しい人に仕える人で、彼女の働きは本当に多くの人に影響を及ぼしました。そのようなマザー・テレサですから、きっと彼女はいつも神さまを身近に感じて愛を届けていただろうと思うのですが、ところがそうではありませんでした・・・彼女は、1948年に尊い働きをし始めますが、その後、彼女の心を大きな闇が覆い始めたのです。彼女は後にこう書いています。「神さまを求めている」「神さまを愛したい」でも、「神さまがいないように感じる。」私たちからすれば、えっと思うことではないでしょうか。彼女は、献身する時、あれだけイエス様の声を聴いたのです。その後も、黙想の中で色々な体験をしました。そして、押し出されるように働き始めたのですが、しばらくして、神さまを感じなくなったのです。信じられますか?彼女は「神さまは私を望んでおられないように感じる」そんな風にも思いました。聖書に、『涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。』(詩編42編2節、3節前半)とありますが、彼女の心は暗い闇に覆われていくのでした。

◯暗闇の意味

ある時、ノイナー神父の黙想会に参加します。そこで、彼女は、自分の中にある深い闇の苦しみ・渇きについて話したそうです。それは、誰にも打ち明けることがでなかった思いでした。ノイナー神父は、彼女にそのことを書くように勧めました。彼女は、言われた通り、素直にそのことを記したそうです。彼女の中にあった「自分は正しい道を歩んでいるのだろうか」「神さまは私を見捨てられたのだろうか」そういった思いを書き記し、ノイナー神父に手渡します。その時、彼女は「読み終えたら、すぐに焼いてください」そうはっきりと頼んだそうです。彼女の生き方を知っている私たちは、長年そのような暗い闇を体験してきたことに驚きだと思います。もちろん、彼女に信仰がなくなったのではないんです。信仰は強くあります。神さまを求める思いは強くあります。でも、手を伸ばしても掴めない。神さまも沈黙して・・・そんな感じだったと思います。彼女は、ずっと、苦しみの中で、御言葉、聖体拝領(聖餐式)を大事にし続けました。マザー・テレサの告白を読み、ノイナー神父は、彼女にこう答えます。「あなたが何か重大な罪を犯したから神さまが離れられたのではありません。あなたは、暗闇の中でなお神さまを切望している・・・手を伸ばして、掴もうとしている、その“神さまを求める渇き”自体が、あなたの働きの霊的な側面なんです」そのように伝えたそうです。ノイナー神父は、後にこう言っています、マザー・テレサの「暗闇」について、実は、それが、彼女とイエス様を強く結びつける絆(神秘的な絆)だったんだと。そして、それが「神に渇く」ということだったのだと・・・そのように言います。生き物は水を必要とします。水がなくなれば、生き物は水を求めます。でも、命の水(生ける水)を深く知るのは、蛇口をひねれば水が出てくる人ではありません。泉を求めて砂漠をさまようような人、渇きに苦しむ旅人こそ、命の水(生きた水)のことを深く知るのではないでしょうか。そのようにノイナー神父は言いました。マザー・テレサはこの「あなたの働きの霊的な側面」ということを聞いて、「11年間で初めて、私は(この)暗闇を愛するようになりました」そう記しています。彼女は、「地上におけるイエス様の暗闇と苦しみの、ほんの小さな一部分であるけどもそれを私は共有している」そう思えるようになったのでした。それは、「誰にも望まれず、愛されず、見捨てられた」人に仕えるにあたり、「彼女自身も同じ孤独を心の内で担う」ことであったというのです。また、それは、イエス様が体験された苦しみでもあり、それを彼女自身も体験することでもありました。彼女は暗闇の意味を見いだします。ただ、彼女の心は、ずっと、深い闇が覆っています。私たちの知っているマザー・テレサは、そのような苦難の中で、あの大きなミニストリーを成し遂げていたんです。

◯キリストもまた渇きを覚えて歩まれた

イエス様は、神さまなのに人となられました。それは、私たちと同じ姿になるためです。そのために、貧しい姿になってくださったのでした。サマ   リアの井戸で、イエス様は喉の渇きを覚えられ座っておられたとあります。そして、水を求めて来た女性に「生ける水」についてお話をされます。自分もまた、喉の渇きを覚えながら、彼女に生きた水を与えようとされたのです。イエス様は、最後、十字架で死なれる時には、肉体の渇きと共に、霊的な渇きを経験されます。「渇く」イエス様はそうおっしゃいました。それは、ご自身の渇きであり、この世界で生きる人達の「渇き」を自分の渇きとしてくださった姿でした。そして息を引き取るとき「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」とおっしゃいました。これは、怖くなったからではありません。私たちの罪を全て背負って、その裁きを全て受け止めて死なれたからです。最後、イエス様は、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って、息を引き取られました。イエス様は、信仰を失われたのではなくて、神の沈黙、神が隠れておられる中でも、神の愛に委ね、仕える人の姿をとられたのでした。イエス様は、そこまで貧しくなってくださったのです。私たちを救うために。

◯自分の十字架を背負ってついて来なさい

今日の聖書箇所ですが、イエス様は『御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている』と弟子たちにおっしゃいました。しかし、その言葉を弟子たちはまだ理解できていませんでした。ペトロは、イエス様を脇にお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言います。その時、イエス様は、こうおっしゃいました。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』この言葉は弟子たちもびっくりだったと思います。イエス様は、急に、ペトロを悪魔呼ばわりしたのではないと思います。イエス様の十字架は、神のご計画だからです。イエス様ご自身、できれば取り除いて欲しい杯だとも祈っておられます。でも、御心通りに歩むのが信仰なんです。それを阻むのが悪魔の業なんです。荒野でイエス様は悪魔に誘惑されましたが、石を自分の思い通りにパンにするメシア(飢えない・渇かないメシア)、どんな時でも神さまに守られているメシア、王様のように振る舞うイエス様・・・イエス様は、そのような姿になることを全て跳ね除けられました。ペトロは、苦しむメシアはありえない、おかしい、そうあってはならないし、そうあって欲しくない・・・そう思いました。でも、聖書で預言されて来たメシア、罪を背負うメシア、悪魔に勝利するメシアは、苦しみを受けて十字架で死んでいかなくてはならなかったんです。貧しくならなくてはなりませんでした。マザー・テレサは、全てを捨てて、神さまの声に従うという道を選びました。途中、彼女は、魂の渇きまで覚えました。それでも、神さまに繋がりながら、「神と人とに仕えました」。イエス様は、マザー・テレサをそこまで用いて、ご自身の光とされたのです。イエス様は、弟子たちにこう言っています。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』十字架を背負ってイエス様に従う・・・このことは、自分を無にして(新しく生まれ変わった者として)神さまと人とに仕えてイエス様に従うことです。でも大事なのは、イエス様の後ろを歩くことです。私たちは時に、大きな試練に遭遇します。信仰を持って歩んだのに・・・そう思う時があります。そのような時、つい、重荷を背負って、一人で歩いているようにさえ感じます。でも、そういう時、イエス様はいなかったのではありません。イエス様は、同じ軛くびきを共に引いて歩んでくださっているのです。マザー・テレサはある時、同じ働きをしているシスターが、奉仕に出かける時に、浮かない顔をしていたので、こう言ったそうです。

「イエスは、御自分より先に十字架を運ぶように言われましたか。それとも、御自分に従うように言われましたか?」シスターは、笑顔で「主に従うことです」と答えたそうです。すると、マザー・テレサは、「では、なぜ主より先に行こうとしているのですか?」と尋ねました。彼女は、従うことの意味を理解して、笑顔で部屋を出て行ったそうです。たぶん、彼女たちがしている「貧しい人に仕える(そのことは神に仕えるということでもあります)」というのは、想像以上に色々な苦しみを体験する奉仕だと思います。でも、それを自分が率先して行動していると思ってしまうと、足を救われてしまうということでしょう。大事なのは、イエス様の後ろに下がり、イエス様を前にし、イエス様が苦しまれた道を見て、イエス様と一緒に歩むことです。マザー・テレサは、魂の渇きを覚えながらも、道を備えられたイエス様の後に従い続けました。そして、1987年9月5日、彼女は天に召されました。彼女を通して、多くの人が愛に生きるようになりました。私たちは、マザー・テレサの生き方は絶対にできないと思います。それでも、マザー・テレサは、それはイエス様の苦しみのほんの一部でなんですと言うのです。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。』彼女は、イエス様から豊かな報いを受けていると思います。イエス様は私たちに自分の十字架を背負い、従って来なさいとおっしゃいます。救われた人は、「神と人とに仕える」姿に変えられて行きます。私たちもまた、そのような「神に仕える人(神を信じる人を超えて)」「人に仕える人」に招かれています。ただ、マザー・テレサがあの大きな働きが、神さまの姿の一部でしかないと言ったように、イエス様が、お受けになった苦難は、大きな 大きなものであったこと、また、全ては、私たちに寄り添い、私たちを救うためであったという、イエス様の大きな愛を知って欲しいと思います。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。