宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
20260823

イザヤ書51章1節~節
ローマの信徒への手紙12章1節~8節
マタイによる福音書16章13節~20節


「見えないキリストと私たち」

説教者 江利口 功 牧師

◯ムツゴロウと愉快な仲間たち

おはようございます。

皆さま、ムツゴロウさんって知っていますか?動物が本当に好きな方でよくテレビに出ておられました。本名を畑正憲さんと言いまして、東京大学で生物学(動物学)を学ばれた方でした。後に、北海道に『ムツゴロウ動物王国』を創って、そこで沢山の動物を一緒に生活した方でした。本当に動物が好きな人で、昔テレビでよく見かけました。動物の事が本当に大好きで、動物を見ると笑顔で近づいて行って「よ~し、よしよしよし」って撫でておられました。犬とか猫とか、馬とか、そういった動物だけなら分かるのですが、ちょっと近づきたくないなって思う、怖い猛獣何かにも「よ~し、よしよしよし」と言って近づいて触れ合おうとする人でした。ムツゴロウさんが北海道に設立した『ムツゴロウ動物王国』は、動物園でもないし、単なる飼育施設ということでもないんです。人と動物が一緒に暮らす場所(一緒に生きようとする試みた場所)が『ムツゴロウ動物王国』でした。そんな、ムツゴロウさんの特徴は、動物が大好き叔父さんなのですが、単に「かわいいでしょ、かわいいでしょ」と紹介するだけではなくて、「この子はね、今、確かめているんですよ」とか「甘えようとしているんですよ」とか「こういう時は、こんな風にしちゃだめですよ」とか、動物の気持ちや感情やを交えて話してくださるところにあると思います。私は、犬がしっぽを振っていたら「嬉しいんだろうな」って、そのくらいしかわかりませんが、ムツゴロウさんは、動物のいろんな仕種(体の態勢、耳の動きや、目つき、鳴き声)からいろんなことが分かるようです。とにかく、動物と触れ合いたいんでしょうね。私がある時、見た番組では、動物のおしっこを手で受け止めて口にする映像もありました。「え、なんで?」って思いましたが、ムツゴロウさん曰く「動物の今の状態(心の状態)が、おしっこに出てくるんですよ」でした。私は「そこまでして分かりたくない」のですが、ムツゴロウさんは、「そこまでして知りたい」のでしょうね。

◯良い羊飼い

私は、ムツゴロウさんの動物に対する愛情、そしてその関わり方って、どこか聖書で言われる羊飼いの姿にも通じるところあるなって思いました。以前に、山岳で暮らす羊飼いの動画を見た事ありますが、その羊飼いの女性は沢山の羊を連れて移動していました。その姿は、「羊を飼う」というよりは、「家族のように羊と一緒に暮らす(一つとなる)」という感じでした。羊飼いを職業としていているようには見えませんでした。その映像を見ていて、本当に良い羊飼いは、羊、一匹、一匹に気をかけているんだなって思いました。山岳地帯ですし、迷わないように、また、病気にならないように、また、増えていくように、すごく気をかけておられました。見ていて、この羊達、幸せだろうなって思いました。私には羊はどれも同じように見えますが、羊飼いには違いがちゃんと分かっているそうです。そして、今日は元気がないな(いつもと違って元気がないな)、歩き方がいつもと違うな、食欲がいつもと違うな・・・目の状態、鼻の状態、排せつ物の状態、そういった個々の羊の状態を本当に把握しているんですね。羊を大切にする羊飼いだと、羊たちは本当に幸せです。

◯キリストと私たち

イエス様は、私たちとの関係を羊飼いと羊たちに譬えておられます。私たちがイエス様のことを知っている以上に、イエス様が、私たちのことを本当によく知ってくださっています。私たちの心の状態、今、何が心配でいるのかとか、寂しい思い、満たされない思い、ほんと色々なことをイエス様はご存じです。さらに、イエス様は羊のために命さえ捨てるとおっしゃるお方です。そして、イエス様がおっしゃった言葉が本当に心慰められるんです。イエス様はこうおっしゃいました。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。仕えられるためにではなく、仕えるために来た。これはイエス様が良くおっしゃる言葉でした。おっしゃる通り、イエス様は、神さまなのに、人となって、私たちの方へ降って来てくださいました。そして、神の前に正しく歩まれ、十字架で私たちの罪を背負って死んでくださいました。そして、黄泉にまでくだってくださったのです。まさに「私たちが豊かに命を受けるため」に、天から陰府にまでくだって、全ての人を救い出してくださったんです。私たちは、今日も、こうして礼拝において、イエス様に集っています。私たちは、イエス様に救われた羊の群れです。もちろん、羊飼いが不在なのではありません。福音書の言葉を通して、イエス様は、今日も私たちに語ってくださっています。そして、聖餐式においても、私たちが命を豊かに受けるために、仕えてくださっています。メランヒトンという神学者は、アウグスブルク信仰告白弁証の中で礼拝について美しい定義をしています。律法の礼拝とは(つまり、間違いがちな礼拝とは)、神が喜ばれるものを神に捧げる礼拝(捧げようとする礼拝)である。一方で、信仰による礼拝とは、神があなたに与えたいと思うものを受けとる礼拝であると言うのです。もちろん、神さまが望まれている礼拝は、後者です。神さまは、私たちが命を受けること、しかも豊かに受けることを第一としてくださっているからです。最後の晩餐の夜のことを思い出して欲しいと思います。イエス様は、最後の夜、弟子達の足を洗われました。それは、イエス様が私たちの罪の汚れを洗い流してくださるために来られたことを教えるためだったのですが、ここにも私たちと神さまとの関係が表されています。つまり、イエス様が私の足を洗ってくださるから、触れてくださるから、私たちは永遠の命に取り込まれて行くのです。では、私たちには、何が出来るのでしょうか?それは、イエス様を、神の子、救い主、私の羊飼いであると告白することです。

◯イエスを誰と言うのか

 今日は、フィリポ・カイサリア地方での出来事を見ています。先週は、シドン・ティルスという異邦人の町が舞台でした。今週見ている、フィリポ・カイサリアというのは、イスラエルの北端と言ってもいいかも知れません。そこは、ローマ皇帝の避暑地のような所です。また、異教の神が祭られている場所でもありました。エキゾチックな場所で、イエス様は、ご自身のことを何者だと言うのか?と弟子達に尋ねられたのでした。では、一緒に聖書を開きましょう。マタイによる福音書の13節をご覧ください。こう書いています。イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。イエス様は「人々はわたしのことをどう思っているのか」つまり、好感を持たれているか・・・そんな人々の評判を気にされたのではありません。多くの奇跡をなさったイエス様ですので、この段階で、色々と人々の評価(噂)はあったと思います。そのような中で、イエス様の本質を尋ねておられるわけです。弟子たちはこう答えています。『洗礼者ヨハネだ』と言う人もいます。『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。まあ、もっともな答えかなって思います。その上で、次にこう質問されたのです。15節。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ここが大事です。今日、一番大事なところです。私たちに問われていることでもあると思います。というのは、私たちもイエス様について、色々な評価の中で生きているからです。わたしは、学生の頃、授業で、イエス・キリストは「愛を訴えた宗教家」そんな風に学びました。授業で出て来ただけでもすごいなとは思いますが、見方を変えれば、「人」としていか見られていないから教科書に載ったわけです。他にも、「愛を教え実践した人」という見方もありますし、「偉大な宗教家」という見方もあるかと思います。もちろん、そんな人は産まれていないというのも一つの評価です。世界中がどういう評価をしているのかと言いますと、「人」なんです。でも、私たちは知っています。神が人となれたという事実です。ペトロはこう答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」これは、凄い告白だと思います。人ではない、神さまですと、しかも救いに来た神さま、生きた神さまですと答えたんです。

◯信仰を与える神

この次におっしゃったイエス様の言葉は、凄いと思います。17節、『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』とおっしゃったんです。この言葉が何を占めているのかと言うと、目を開いたのは父なる神さまであると言っているのです。信仰によって私たちは救われますが、信仰の力で救われたというわけではありません。エフェソの信徒への手紙2章8節を見て欲しいと思います。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。』とあります。「私は信じたから、神が私を救ってくださった」というのではなく、「父なる神さまが御子を遣わし、十字架の姿、復活の姿を世に示してくださって、そのことを伝えた弟子達の言葉が、聖書を通して私たちの耳に入り、そして、そこに聖霊なる神さまが働いてくださって、私たちの心の目が開かれたというのです。私たちが、世にある宗教の中でキリスト教を納得したのではなくて、イエス様の人生、そして、私たちの人生、全てを通して、信仰を神さまが与えてくださったのです。

◯教会とは

さらにイエス様はこうおっしゃいます。『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』ここに、教会の姿が描かれています。教会とは何かがわかります。教会は、は、イエス様を主と告白している群れであり、神の恵みの前に集められている群れなんです。そして、陰府の力もこの群れを壊すことができないと言っています。それほど、堅固な守りの中にあるのがわたし達です。この世で生きる私たちは、世間の影響を強く受けます。知らず知らずに、イエス様が誰なのかわからなくなってきます。群れを離れた羊がとても危険なように、教会を離れる、礼拝から離れるというのは危険なことなんです。さらに、イエス様の言葉からわかるのは、教会に罪の赦しが与えられる場所だといことですね。洗礼はまさに天の国の扉をその人のために開ける鍵です。それだけではなくて、私たちは常に罪の赦しを必要としており、私たちは礼拝の中で、また、聖餐式の中で、罪の赦しを頂きます。そこに、あなたの命、生き生きとした命がありますよって聖書は教えています。私たちは、こうして週の初めの日に集まっていますが、それは、同じ信仰を持つ人がただ集まっているのではありません。一緒に、聖書を研究しているということでもありません。見えないイエス様とイエス様を主と告白する私たちが一つとなっている空間が礼拝です。私たちは、御言葉を聞く時、そこに聖霊なる神さまが働いて、私たちを霊的に豊かにされているんです。また、聖餐の恵みを頂くとき、そこにもイエス様が臨在されていて、私たちに、御言葉による約束どおり、恵みと命を与えてくださっています。御言葉のあるところに神さまは働かれている、また、御言葉の約束がある洗礼や聖餐の場にも、神はそこで働かれておられる、そういった空間が礼拝なんだって受け止めてくださればと思います。

◯あなたはわたしを何者だと言うのですか?

 教会は、イエス様を羊飼いとする羊の群れです。礼拝は、羊飼いと羊が交わる時です。そこで、働くのは羊飼いです。私たちに必要なことは何でしょうか?それは、イエス様が誰なのかということを告白すること、信じる事、そして、イエス様を信頼することです。世の中の人がどうイエス様を考えているのかは関係ありません。「あなた(方)はわたしを何者だと言うのか。」今日、弟子達にではなくて、わたしにそのことを尋ねておられると思って聞いていただければと思います。信仰を持っているって凄い事なんですよ。恥ずかしがらず、「あなたは私の神、私のために十字架で死んでくださり、罪の赦しを与えてくださった方、生ける神です」そのような告白を他の人にできるようにしてください。それが私たちにできる最高の信仰の業です。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。