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◯信じている・仕えている
おはようございます。教会学校では毎月、聖書の御言葉を1節ずつ暗唱しています。今月の暗証聖句は列王記上17章1節の「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」という御言葉です。これは、預言者エリヤがイスラエルの王、アハブの前で語った言葉なんです。アハブという王はイスラエルの王でありながら、聖書の神さまではなく、異教の神々を礼拝する王でした。聖書には、それまでのどの王よりも「主の目に悪とされることを行った」と書かれています。そのアハブ王の前にエリヤが行き、彼の前で「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言ったのです。私はこの暗証聖句を見ながら、ちょっと気になったことがあったんです。エリヤはアハブに「私が信じているイスラエルの神、主は生きておられる」とは言わなかったんですね。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言ったのです。「私は神さまを信じています」という時には、神さまがおられることを認め、その神さまを信頼して生きているという信仰者の姿を表現しています。でも、「私は神さまに仕えています」という時、少し、響きが違って聞こえませんか?「神さまに仕えています」という時には、もう一歩踏み込んで、信じているということに加えて、「神さまとの関係の中で、神さまを畏れ、御言葉に従って歩んでいます」という生き方まで含まれていると思います。今、礼拝の前に小教理問答から十戒を少しずつ学んでいますよね。この十戒についても同じことが言えると思います。つまり、「この戒めは大切だ」と思って受け止めると「ま、いっか・・・」ってなりませんか?でも「神さまが命じられたことだ」と、畏れ多くそれを受け止めて実践していくと、不思議なことが起こったりするんですよね。そうやって重い腰をあげて実践したときに初めて見えてくることってあるんですよね。私は、今日の聖書箇所を読んでいて、「祈り」についても同じようなことがあるのではないかと思いました。
◯願う・求める
私たちは神さまに色々なことを祈ります。その多くが「願い」だと思います。「病気を癒してください」「子供達を悪いものから守ってください」「問題が解決しますように」という風に祈りますが、「神さま願う」ことはとても大切です。でも聖書は「祈り願うように」教えるだけでなく、「求めなさい」とも命じているんです。もちろん「願う」と「求める」というのは同じような意味ではありますが、「信じる」と「仕える」のように違いがあります。「願う」というのは、必要なものがあって、もしくは、願望があって、それを「叶えてください(与えてください)」と神さまに祈ることです(簡単に言えば)。でも、「求める」というのは、願いを打ち明けることよりも、「探し求める」得るまで頑張り続けるという意味を持っています。例えば、「神の国とその義を第一に求めなさい」とイエス様がおっしゃる時、それは、「神の国とその義をください」と願うことではありません。そうではなくて、得ようと必死になるということではないでしょうか?今日、福音書に出てくるカナンの女性は、まさに、「願う人」から「求める人」にまで変わっていく人の姿でした。そのような、イエス様から離れず、憐れみを求め続ける彼女の信仰を見て、イエス様は、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とおっしゃったのでした。
◯福音書の舞台設定
さて、今日の福音書ですが、イエス様は、ティルス・シドンの地方に行かれたと書かれています。普段、聖書を読んでいますと、色々な地名が出てくるので(しかもカタカナで出てくるので)、右から左へと流れていくことあるかと思います。ただ、今日の、ティルス・シドンの地方とあるのはとても意味があるんです。ティルス・シドンは、異邦人の土地なんです。そこにもまた異教の神があり、それを信仰する人たちがいたんです。そのような町にイエス様と弟子たちは行かれたんです。なぜ、そのような異邦人の町にイエス様が行かれたのか(普段はいかない地域です)・・・聖書には明確な理由は書かれていません。ただ、ここでは、人を射癒したり、御言葉を語る目的はなかったようです。聖書を見る限りでは「人目を避けてひとまずイスラエルの地を退かれた」という感じです。
◯彼女は求める人へと変えられて行く
このカナンの女性は、イエス様がやって来られたことを知りました。
そして、恐らく、誰かから、イエス様のことを聞いていたと思われます。彼女は、悪霊に取りつかれた娘を癒してもらうために、イエス様の処にやってきました。彼女の願いはシンプルでした。「娘を癒してください」これだけです。しかし、彼女は、噂に聞いていたイエス様とは違う姿を見ることになります。イエス様は、彼女の願いを聞き入れてくださる様子もなく、黙っておられたのです。弟子たちでさえ、何とかならないものか・・・と思ったほどでした。イエス様はこうおっしゃいます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」「失われた羊のところにしか」・・・この「しか」という言葉は彼女にとって、突き刺さったと思います。「あなたは対象外」という風に聞こえてもおかしくないからです。しかし、彼女は、「そうですか・・・私は対象外なのですね・・・」とその場を去ったのではありませんでした。彼女は、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言いました。イエス様から離れようとしなかったのです。ただ「願う姿」から「求め続ける姿」に変わっていきました。彼女は、イエス様の憐れみにすがったのです。イエス様は、「失われた羊のところにしか」とおっしゃいました。これは見方を変えると「冷たいな」って感じると思います。でも、たとえば「天国は義しい人しか入れない」と聞けばどうでしょうか?「冷たいな」って思いませんよね。「そりゃそうだよね」って思いますよね。実際、天国は義しい人しか入れません。本来私たちは入れないんです。入れなくて当然なんです。では、私は対象外ですねって去りますか?やはり、そんな私を憐れんでくださいって願いますよね。すると、愛の神さまは願い求める人に「そのあなたを救う」と言ってくださるのです。「失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉に対して、彼女は諦めませんでした。「主よ、どうかお助けください」と助けを求めました。するとイエス様は今度は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃいます。これを聞けば、「そうですか・・・では諦めます」と言いたくなりそうですが、彼女の求める思い(何とかして娘を助けたい)という思いは、イエス様の言葉の中に含まれている希望を見つけることができたんです。彼女は言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」彼女は、主の食卓から完全に締め出されているのではないという事実を受け取りました。そこで、「そのおこぼれだけでいいからください。それだけで十分です」と返すことができたのです。
◯聖餐式にたとえてみる
例えば、聖餐式の時は、皆さまが聖壇の処に来て、パンとぶどう酒を頂かれますよね。神の家族として主の食卓から頂きます。その時、私が、みんなにあげながらも、皆さま(あなた)の前を通りすぎたらどうでしょうか。「あれ、先生、忘れてはるのかな?」と思って、「先生、先生、わたし、わたし」って言うと思います。その時に私が「義しい人しかあげれないんですよ」って言ったらどうしますか?ちょっと不服に感じつつも、「そうですか、では仕方ないですね」ってなるかも知れません。では、聖餐のパンが、どんな病気でも治す、不老長寿のパンであればどうでしょうか?何としてでも欲しいと思いません??パンを裂いた後の粉(パン屑)でもいいからくださいっていいたくなりませんか??それが、この女性だったんです。彼女は、自分の娘を癒せる人は、イエス様しかいないと思っていました。ですので、求め続けたんです。彼女は、イエス様から離れようとしなったんです。パン屑でいいから欲しい。そう思えたんです。その思い(イエス様を誰かと把握し、憐れみを求め続けたその思い)にイエス様は、答えてくださいました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、彼女の娘は癒されました。彼女が帰ると、元気な娘がいたのです。私は、今日の聖書箇所を読んで「求める」「イエス様から離れない」って大事だなって思いました。彼女は「救いはあなたにしかありません」と信じて、どのような状況でも(癒してもらえないように聞こえる状況でも)イエス様から離れませんでした。この信仰が大事だと思います。
◯私たちの祈り
私たちは、祈ります。神さまに願います。でも、願ったことがいつも叶うわけではないことも経験しています。そういう時、「主よ、なぜ願いをかなえてくださらいのですか」と思うことあるし、また、「祈っても仕方がない」「これは聞いてもらえない願いだったんだな」と諦めることだってあります。
しかし、今日の聖書箇所から受け止めたいと思うのは、願っている結果が得られなくても、神さまから離れない(イエス様から離れない)ということです。危険なのは「祈っても仕方がない」「祈ろうが、祈らなくても結果は変わらない」と神さまとの対話を辞めてしまうことです。祈りには力があります。私の経験上そう感じますし、祈りを大切にしている方の人生は何かが違っています。祈りが叶えられない時を何度も経験している人であっても、祈り続ける人は揺るぎない何かを持っておられます。私たちにとって大切なのは、どのような状況でも憐れみを求め、神さまの側から離れないことです。「祈っても仕方がない」と諦めるのではなく、求め続けることです。この女性は、最初、イエス様に願いさえすれば・・・そのような思いだったと思います。でも、彼女の必死さが、イエス様に叫び、ひれ伏し、「主よ、助けてください」と求めるまでになりました。彼女は、救いはあなたに及ばない・・・そんな風に聞こえました。でも、憐れみを求め続けました。そして、彼女は「イスラエルしか」というのを乗り越えて、憐れみが零れてくる神さまを知りました。神さまの憐れみは、本来であれば、対象とならない人をも、その翼の中に包み込んでいく愛なんです。願い求め続けたからこそ、神さまとの本来の関係、そして、憐れみにより、それをも超えて恵みを与えてくださる神さまの姿を知ったのです。是非、憐れみ豊かな神さまに祈ることを諦めないでください。神さまを信じて、あなたしか私を救える人はいないのですという思いで、イエス様の側から離れない信仰を持って頂ければと思います。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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