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◯無人島生活
おはようございます。昔、テレビで無人島生活をする企画がありました。サバイバルと云った方が良いかも知れません。サバイバルは一般的なキャンプとは違っていまして、極限の状態で生活します。そこで学ぶのは「普段の生活は、多くのものに支えられている」ということだと思います。普段は、蛇口をひねれば水が出ます。店に行けば食べ物がある。暗くなればスイッチ一つで明かりがつきます。さらに、病気になれば病院があり、雨風、また、危険なものから守ってくれる家もあります。何の不自由もありません。無人島生活をすれば、灯りを得ること、食べ物一つ手に入れることがどれほど大変か、住む場所があることがどれだけありがたいことか・・・。そういった、当たり前のことが、当たり前ではないということを痛感すると思います。そして、もう一つ、人間というのは、「弱い存在である(無力な存在である)」ということも学びます。どうでしょうか、もし、プロのトレーナーが同行してくれて、そのような無人島生活をしたとしたら、心強く感じるのではないでしょうか?もちろん、トレーナーは決して、代わりに水を汲んできてくれたり、火を起こしてくれたり、食べ物をとって来てくれたりするわけではありません。それは、「そこで学んで欲しいことがあるから」です。昔、イスラエルの民は、モーセに率いられて、エジプトを出ました。彼らは「荒野」という場所で40年を過ごしたと書かれています。不便な所で食べ物、飲み物に困りました。時に、彼らはモーセに愚痴や不平を言いました。でも、その度にモーセは、神に祈り、訴えました。その度に、神さまはそれに応えてくださいました。岩を打てば水が出るようにし、天からマナという食べ物を降らせてくださいました。時には、肉を与えてくださいました。彼らの40年の歩みには、深い意味がありました。約束の地に入る前に、彼らは、ある大切なことを学ぶのでした。それは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことでした。彼らは、エジプトを出て、すぐに約束の地カナンに入ったのではありません。40年間に及ぶ、いわば、無人島生活のような体験をしました。でも、それは、「彼らが、神さまと共に生きている」ということ、さらには、「神は大きく、人間は小さい」「神は人を見捨てることがない」そういったことを学ぶためでした。サバイバルを体験する時、参加者は、一定のリスクを負います。トレーナーは、アドバイスをしますが、普段どおりの生活を無人島でできるようにお膳立てすることはしません。トレーナー自身、天気のこともわからないし、食べ物が手に入るかどうかもわかりません。もちろん、トレーナーが別のところで、自分が取って来た魚を食べたり、自分専用の小屋を作ることはしません。参加者と一緒に生活し、彼らの能力に合わせて共に生きるんです。つまり、彼らに委ねるんです。トレーナーの目的は「普段の生活が多くのものに支えられていること」「自然を前にした人間の無力さ(弱さ)」「仲間の大事さ」そういったものを身をもって体験してもらうことです。そして、それを乗り越えた喜びを得てもらうことだと思います。イスラエルの民に、神が与えられた40年は、これと同じようなことで、さらに、もっと深い意味がありました。それは、「あなたの命を支えている究極的なものはパンではない」「神だ」「私たちを生かしておられるのが神さまなんだ」「その神さまはいつも共におられる」という事実をを教えるためでした。わたしは、今日の聖書箇所も、弟子達にとって短い時間でもそのような大きな体験の場となったのではないかと思います。
◯弟子達にとってのサバイバル
今日の聖書箇所では、弟子たちが嵐の中で、逆風と波に苦しんでいる様子が描かれています。弟子たちの中には漁師がいました。船を操作するのは得意なはずですが、彼らが苦しんでいるわけです。漁師ではない弟子達も乗っていました。任せて安心だったはずの漁師が必死になっている姿を見て、自分はどうなってしまうんだろう・・・ともっと不安だったのではないでしょうか。サバイバルで言えば、トレーナーが困っているのを見るような状況です。まさに、どうすればいいのか!ってなる状況です。かなりの時間が経ったところでイエス様が来られます。しかも、舟に乗って「大丈夫か」と近づいて来られたのではなく、「湖の上を歩いて」弟子達に近づいて来られました。弟子たちは、この嵐という状況の中で、また一つイエス様の凄い姿を見たのでした。この出来事の前に何が起こったのかと言いますと、弟子達は、イエス様が5千人もの人にパンを与えてくださった姿を見ました(奇跡を見ました)。弟子達は、びっくりしたと思います。イエス様の力を実感したと思います。今度は、弟子たちは、湖の上を歩くイエス様を見たんです。自分達の舟(水の上では一番安定しているはずの舟)が翻弄されている中で、揺れもしない、安定したイエス様のお姿を見たということに意味があったのだと思います。
◯ペトロの信仰
この出来事の中で、マタイはペトロもまた湖の上を歩いたエピソードを記しています。ペトロは、嵐の中でイエス様を見ました。しかも、舟は嵐で揺れ動いているのに、その中で、揺るぎなく立っているイエス様を見ました。ペトロは、イエス様の所に行こうとしますが、「自分も水の上を歩いてみたい」と思ったのではありません。「自分の信仰を試してみたい」ということでもないようです。それは、彼の言葉に現れています。ペトロはイエス様にこう言っているですね。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14章28節)まず、「あなたでしたら」とペトロは言っています。これは、イエス様が「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃったからです。「わたしだ」という言葉は、聖書で神さまがご自身を表現する時に使う言葉です。イエス様は、神さまとして「わたしだ」「安心しなさい」「恐れるな」とおっしゃったわけです。ですので、ペトロは「わたしだ」という言葉を聞いて、「あなたでしたら」と返しています。そして、ペトロは、自分の力に頼るのではなく、言葉で天地をお造りになる程の神さまの言葉を待ったのです。イエス様は、それに答えて、「来なさい」と命じられました。すると、ペトロは歩くことができたんです。御言葉とその信仰が一つとなった瞬間です。信仰というのは、神から来ます。神の言葉があって、それを信頼する私たちの心がある。その時、力を発揮します。しかし私たちは弱いんです。最初ペトロの心を支配していたのは、イエス様の言葉、目の前にいるイエス様でした。ところが、現実に目が行きます。嵐が船をどれだけ揺さぶっていたのかを思い出したのでしょう。彼の信仰はイエス様にを掴みきれなくなりました。ペトロは溺れそうになりますが、その時、「主よ、助けてください」と叫びます。すると、イエス様は、すぐに手を伸ばしてくださって、ペトロを掴んでくださったのです。ペトロはイエス様のギリギリのところまで行ったのでしょうか。だから、すぐに手を取ってもらえたのでしょうか?もちろん、聖書には書かれていませんが、わたしは、ペトロとイエス様の距離が近かったからすぐに手を掴んでもらえたとは思えません。イエス様がさっと助けてくださったのは、どんな時でも、イエス様は近くにおられる方だからです。この話しは、最後まで、信仰の弱い人の姿と、最後まで共にいる神様の姿を描いています。
◯大事なことを知るために
イエス様は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロにおっしゃっています。イエス様は、私たちに、最後まで信じ続ける力を持って欲しいと願っておられます。しかし、私たちは弱いのです。私たちを取り巻く負の力は大きいのです。イエス様は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃっていますが、これは、信仰をしっかり持つようにと言う励ましと、同時に、「そのあなたとわたしは共にいる」というイエス様の招きの言葉でもあります。サバイバルは、極限状態の中で、「大切な事」を学びます。これはそういった状況でしか学べません。でも、その体験は、自分の弱さを知ると共に、何か、新しい自分や、支えになっているものは何かを発見することにつながるのでないかと私は思います。神さまは、イスラエルの民を40年、荒野で生活させたのは、「人はパンだけで生きているのではく、神と共に生きている存在で、神の力によって生きている存在で、神の御心の中で生きている」という事を教えるためでした。それは、信仰を持った人が持っていないといけないとても大事なことだからです。弟子達もまた、こうした、イエス様の様々な奇跡を体験していくことで、神の御子であるイエス様を知っていったのだと思います。
◯キリストと共にいる時にこそ強い
「順風満帆じゅんぷうまんぱん」という言葉があります。これは、舟に関する言葉です。風が追い風で、舟の帆が風をいっぱいに受けて順調に進んでいる・・・そのような様子から、人生が何も問題なくスムーズに言っている状態を表します。しかし、私たちの人生は、決して「順風満帆」ばかりではありません。信仰を持っていても、「何故こんなことが起こるのか」という疑問や、「神さまって本当におられるのか」「何もしてくださらないのか」そういった、思いになります。でも、神さまはいらっしゃるし、私たちを養い・育ててくださっています。神さまは、先を見越して、苦しまないような人生になるようにお膳立てされるお方ではありません。むしろ、イスラエルの民が荒野で経験したように、無人島生活のように、試練に遭わせることもあります。しかし、不思議な力で助けてくださるのが神さまなんです。イエス様は、弟子たちに対するように、私たちも信仰を強くし、一生懸命生きることを願っておられます。決して、私たちに苦しみに無関心なのではありません、何もしてくださらないお方なのではありません。私たちが、自分の力に過信して高慢になり、祈ることも、頼ることも、聖書を読むこともしない人にならないように、また、神さまの前に謙遜になって出ることを忘れないように、成長させてくださっています。そして、自分の弱さを知り、謙遜に生きることで、私たちが隣人を愛し、助け合って、赦し合って生きるように成長させてくださいます。私たちの信仰は弱いです。ので、力ある人に頼るんです。神さまが、そのような力がある方であることを、聖書を通して何度も啓示してくださっています。私たちの信仰は弱いです。しかし、弱さゆえに、かえってイエス様の強さがはっきりと私たちに現れるようになります。私たちは、嵐のような状況の中で、「誰に叫べばよいのか」を知っています。これこそ、クリスチャンにとっての大きな強みです。その強みに生きるために、神さまは時に、私たちに弱さを覚えさせ、自分の無力さを実感させられます。しかし、それらはすべて、自分の力を頼らず、神を頼るため、いつも傍におられる神さまを知るためです。私たちのために十字架にかかってくださったイエス様が、私たちを放っておかれるはずがありません。イエス様は見ておられます。遠くにおられるようで、いつも側におられます、私たちが叫んだ時に、すぐに手を差し伸べることができる距離に、イエス様はいつもおられます。
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