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◯この奇跡は何のために
おはようございます。
今日は、イエス様が、5つのパンと、2匹の魚を用いて、5千人以上の人たちを養なわれた時のことを一緒に見たいと思います。福音書を読んでいてこれほど多くの人を対象に奇跡を行われたイエス様の話ってないですよね(4千人の人を養われた話くらい)。多くの人が見ている前で人を癒されるということは多くありますが、一度に何千人もの人を対象にイエス様が奇跡を行われることはありませんでした。人に寄り添いながら奇跡を行っていく・・・それがイエス様でした。では、なぜ、今日はこれほどの数の人に対して奇跡を行われたのでしょうか?それは、この日の時の流れの中で、イエス様の神さまとしての姿が現された・・・そんな風に見るのがいいかと思います。もちろん、弟子たちはこの奇跡に驚きました。ちなみに、時々、2匹の魚と5つのパンの話から、「少年が2匹の魚と5つのパンを差し出したように、あなたも少なくても自分の全てを神さまに捧げるならば、イエス様はそれを豊かに用いてくださる」という教訓として語られることがあります。もちろん、神さまが私たちの捧げものを豊かに用いてくださるというのは聖書の真理ではありますが、この聖書箇所では、そのことを言っているとは思えません。でないとイエス様の凄さの話が、“人が捧げものをする”という人間の功績にすり替わってしまうからです。弟子達はイエス様の凄さを伝えているのです。さらには、慈しみに満ちた神さまの姿を描いているのです。さて、14節を見ますと、集まった人の中に、多くの病人がいたようです。もちろん、神の国のことを聞きたい人もいました。イエス様がこの世界を何とか変えてくださるという希望を持っていた人が集まっていました。そのような中で、イエス様は、病人を一人一人癒していたと思われます。そこで多くの時間が必要となりました。昔(幕末の時代)、J. C. ヘボンというアメリカ人の宣教師が日本にやってきました。彼は、お医者さんだったんです。彼は、「治療する」という行為と共に“聖書の神さまを伝えるため”に日本にやってきました。当時の西洋医学は、その時の日本の医学とは違って進んでいました。また、貧しい人は、薬を買うこともできませんでしたが、ヘボンは(やはり宣教師ですね)、貧しい人には無料で治療をしていたんです。彼の治療を奇跡に感じたようで、ヘボンの所には長蛇の列ができたようです。多分、待合室もいっぱいだったと思います。イエス様の周りには沢山の病の人が集まっていました。当時は、薬は高いし、その薬で本当に治るかどうかはわからない。治らない病が多い、そんな時代です。そのような時代に、イエス様は全て癒されるのです。しかも、薬を使うのでもない、切ったり縫ったりするのでもない。御心ならば治っていくんです。もちろん、愛と憐れみから、人々を癒していかれるので、お金は必要ありません。多くの人が集まらないわけがありません。そして、多くの時間が費やされて行くのは当然です。日が暮れるころ、弟子たちは心配になってきます。病院でしたら、受付は終了いたしました・・・ってなる頃でしょうか。そんなご様子のないイエス様を見て、心配になった弟子達は、イエス様に提案します。15節・・・。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』もしも、皆さんが病気で、イエス様の近くに行ったとします。中々自分の所にイエス様が来なくて、やっと治してもらそうと思ったら、弟子たちが、「かいさ~ん」って言ったら「え~」って思うし、「ずっと待っていたのに」って思うし、困りますよね。でも、イエス様には呼び求める者の声を無視するお方ではありません。今日の話から、イエス様は、羊に対する羊飼いのように、私たちの魂も体も命もすべて愛と憐れみによって守ってくださるお方であることが分かるのです。この出来事は、イエス様のお人柄、神さまとしてのお姿が現されたとても美しい出来事だと思います。私たちはこの方を信仰しています。私たちは、病になります。また、死にます。それは、罰のように思います。でも、神さまは、病になり、老いて死ぬ私たちを見て、仕方ないよね、と言うお方ではないということがわかります。救おうとしてくださるのが神さまなんです。この出来事からその神さまのお姿が伺えます。とは言え、弟子達にとって、これだけ大勢の人数をどうやって養うのか?・・・というのが問題でした。彼らはまだイエス様がどのようなお方なのかを知っていませんでした。弟子たちは、少年が持っていた、2匹の魚と5つのパンを持ってくると、ここからが凄いですね。人々をグループごとに座らせ、そして、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子達にお渡しになりました。すると、パンが尽きないんです。さらに、残った物をかごに入れると12の籠が一杯になったと記されています。私たちは、この奇跡をどのように見ると良いのでしょうか。先ほども言いましたが、私たちが捧げる小さな捧げものを神さまが大きく用いてくださるということを、この箇所は教えているのではありませんね。イエス様が、どんなお方なのかということです。イエス様が、パンを沢山増やすことが出来る方だ・・・ということでもありません。ここで私たちが知ることができるのは、イエス様は私たちの病を治し、貧しい心を満たし、日々養い、命そのものを与えたいと願う愛の神であるということです。先ほど、ヘボンの話をしましたが、ヘボンの行うことは「奇跡」に思われました。でも、彼にも限界があります。彼は薬を用いるしかありません。知識と技術を生かすしかありません。しかし、イエス様の癒しには限界がありません。イエス様は医術を用いるのでも薬を用いるのでもなく、ご自身の力・ご意志・言葉によって癒されるのです。ヘボンより凄いのではなく、ヘボンの背後にいるのが神さまなんです。以前に学んだことなんですが、創世記の天地創造の箇所を見ますと、3日目に植物が作られ、4日目に太陽が作られます。えっ?て思いません?植物には太陽が必要じゃないかって思うでしょ。でも、創世記の話から分かるのは、植物を、太陽を用いて神さまは成長させられますが、太陽がなくても、神さまは植物を成長させることができるんです。植物の命も動物の命も、私たちの命も、それを養うのは、太陽の光、食べ物ではありますが、本当に成長させているのは、神さまの御心(ことば)なんです。申命記の8章3節のみ言葉を共に見ましょう。『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きる(生きている)」この事実を神さまは信仰をもって受け取って欲しいのです。悪魔が「神の子なら石をパンに変えたらどうだ?」と誘惑したときに、イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とおっしゃいました。よく冗談で、人はパンだけで生きるのではなく、お米も食べますというのがありますが、これは、面白いですが、大事な点が抜けています。というのは、それでは、パンとみ言葉が並列なんです。同じ位置にあるんです。聖書は、パンとみ言葉を同じ位置に置いているわけではありません。つまり、パンは肉を養い、み言葉は霊を養うということを言っていないんです。パンの背後に神さまの御心があるという意味です。実際イスラエルの民は、自分達が作ったパンではなくて、天からのマナを食べて生きました。ルターは、小教理問答の中で、「私たちの日毎の糧を今日も与えたまえ」という主の祈りの解説として、それは、パンだけ(つまり食事だけ)を意味するのではなくて、着る服、住む家、家族、社会、政治・・・生活に必要なもの全てが、神さまの御心(愛)によって与えられていると教えています。違う箇所では、もし、神さまが、養うことをおやめになれば、私たちは、たちまち生きることができなくなるというのです。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」というのは、「私たちは物質の“パン”によって生かされているのではなく、愛をもって“そのパン”を与えてくださる神(イエス様)と共に生きているのです。」ということなんですね。もし、わたしは生活に必要なもの全てを自分で得ていると思う人がいれば、その人の信仰は虚しいです。神さまはいつでも全てをその人から取り去ることができます。そうではなく、その糧を与えてくださる神さに感謝する信仰がその人を豊かにするんです。もう一度言いますね。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」というのは、「私たちは物質“パン”によって生かされているのではなく、愛をもって“そのパン”を与えてくださる神(イエス様)と共に生きているのです。」ということなんです。今日の聖書箇所から、イエス様は(神さまは)、私たちを養おう、養おう、愛そう、愛そうとしてくださっているお方だということがわかるんです。ですので「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うのではなく」目を天に向けて「神の国とその義を求めなる」と言いのです。そうすれば全てのものが加えて与えられるのです。パンがなくても、パンを創造することができる神さまを私たちは今日見たんです。私たちが育てなくても、天から持ってくることができるイエス様を私たちは見たんです。そのイエス様が、世も更けたからとか、あなただけじゃないだとか、あなたは他の人より罪人だからとか、そういった分け隔てをせず、イエス様を必要とする人を等しく憐れんでくださるお方です。羊飼いのように、私を、私の命を、永遠の命を、喜んで与えてくださるお方だということを今日、この聖書から受け取って欲しいと思います。そして、イエス様を信頼して歩んで欲しいと思います。最後になりますが、もう一度申命記8章3節の神さまの声を聴きたいいと思います。『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』主は、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられたとあります。マナは天から降って来たパンです。神さまは、だれも(先祖も)食べたことのないマナを通して神さまはイスラエルの民を養いました。天から降ってきたパンを“マナ”と呼んだのは、“これは何だ”と驚いたという言葉からと云われています。ここで、あなたも先祖も味わったことのないマナを与えられたとありますよね。イエス様は、私たちの罪を贖い、洗礼を通して、罪の赦しを与えてくださいました。そして、私たちに、あなたも先祖も味わったことのない、マナ、すなわち、聖餐のパン(ご自身の体)とぶどう酒(血)を私たちに与え続けてくださっています。荒野で5千人が食事を得たときと同じように、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、牧師にお渡しになり、牧師が皆さまにお配りしています。この天からのマナは、霊的な命であり、罪の赦しであり、私たちの力です。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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