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◯ガチャガチャ
おはようございます。皆さま「ガチャガチャ」ってご存じですか?お金を入れてつまみを回すと、小さなおもちゃの入ったカプセルが1個、コロコロっと出てくるゲームです。今は、ショッピングセンターの一角に、何台も並んでいるのを見かけますが、私が小学生の頃は、町の駄菓子屋さんの軒先にポツンと置いてありました。その「ガチャガチャ」の魅力は何と言っても、“何が出てくるのか分からない”というワクワク感にあります。さらに、どうしても欲しいものがあると、それが出てくるまで、何度もお金を入れてチャレンジしてしまう。そんな人間の心理も上手くついていると思います。しかし、最近では、この「ガチャ」という言葉が、人間の運命を表す言葉として使われるように変化しました。有名なのは「親ガチャ」です。どういう意味かわかりますか?私たちはで生まれてくる親を選ぶことは出来ません。そして、どんな家庭環境に生まれてくるかによって、ある程度の人生は決まってしまいます。そこで、“どんな親のもとに生まれてくるかは運次第”ということで「親ガチャ」という言葉が生まれました。他にも、学校に行けば「先生ガチャ」、働けば「上司ガチャ」、引っ越しすれば「隣人ガチャ」・・・。人生のあらゆる局面で「やった~」と喜ぶか「あちゃ~(最悪)」となるか・・・それは、蓋を開けてみて初めて分かることで、そういう時に、「ガチャ」という言葉を使います。私自身、小さい頃は「何でこんな家に生まれたのかな」って思うことがありました。でも、昭和の人たちは、その嘆きはありますが、「這い上がってやる」という反骨精神もあって、負けていなかったと思います。けれども、今の時代の「ガチャ」という言葉が使われている中には、どこか寂しい「仕方ないよね」というあきらめを感じます。
◯私たちの人生はガチャなんだろうか
「私の人生はハズレのカプセルを引いたようなものだ」・・・もしそんな風に思って生きるとしたら、これほど寂しいことはないと思います。しかし、聖書は、そうではない別の世界観を教えています。それはどのようなものでしょうか。
◯譬え話の説明
今日、私たちは、イエス様が弟子達にお語りになった3つの譬えを見ています。一つは、畑に埋まっていた“宝”を見つける人、そして、もう一つは、良い真珠を探していた商人が“価値ある真珠”を見つけた話、そして、3つ目は、魚を獲る網に譬えられた“世の終わり”です。ではまず、最初の二つの譬えを見て行きたいと思います。マタイによる福音書の13章44節から50節(26頁)をお開きください。イエス様の譬えはこう始まります。「天の国は次のように譬えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」古代の世界では、豊かな人は、いくつかの方法で、自分の財産を管理していたようです。一つは、土地とか家畜とか畑です(不動産)。もちろん、お金を現金として持っていました。さらに、自分の土地に埋めて隠しておくという方法(タラントンの譬えにも見られるやり方)がありました。当時、いつ戦争になったり、強盗が来るか分からないからです。この譬えに登場する人は、小作人か何かだと思いますが、彼はある日、作業中に偶然、昔誰かが埋めた宝を見つけたのでした。彼は、それを見つけて、喜んで帰って行き、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買い取りました。ここでのポイントは彼にとっては「思いがけない突然の出会い」ということ、そして発見した宝に「自分の財産にまさる価値を見いだした」というところです。二つ目の譬えは、商人の譬えです。こう書いてあります。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」これもシンプルな譬えですよね。真珠と言えば、今では養殖されて造られていますが、当時は、そのような養殖の技術はなかったようで、天然の貝の中から見つけていました。ですので、非常に価値がありました。さらに、良い真珠に遭遇するのは非常に希だったようです。この譬えでは、探しているのは、貴婦人とか王様ではなく商人です。商人とは、本当に価値あるものを“見極める力”を持った人です。この商人は、あちこちの市場を巡り、良い真珠を探し求めていた人でしょう。そしてついに、ものすごく美しい、極上の真珠に巡り合ったのです。彼もまた、躊躇することなく、自分の手持ちのコレクションや財産を全て売り払って、その一つの高価な真珠を手にいれたのでした。この譬えのポイントは、「探し求めていたら、想像をはるかに超える、価値ある真珠に出会った」ということです。
◯この譬えに込められたイエス様のメッセージ
私たちって、「天の国」の本当の姿(素晴らしさ)はイメージできないと思います。目に見えない、神の世界を伝えるために、イエス様は、「宝」「高価な真珠」に譬えながらも、さらに、「持ち物をすっかり売り払ってでも買い取る人の姿」を用いておられるのです。最初、“ガチャガチャ”の話をしましたが、“ガチャガチャ”って透明で中が見えるんです。で、本当に数が少ないと、次に出るのが分かります。少し多くても、何回か回せば必ず手に入ることが分かる時があります。そういう時は、お金をかき集めてでも、ガチャガチャをすると思います。その時の子供のワクワク感というか目の輝きって想像できませんか?まして、そのカプセルの中にあるおもちゃが輝いて見えていたら・・・興奮・目の輝きってどれほどのものかと思います。私は自分がそのような経験をしたので良く分かります。ガチャガチャに興味がない方でも、ある時、中身を見たら、何と本物の宝石が入っていたらどうでしょう・・・血眼になって手に入れようとするのではないでしょうか。イエス様は、全ての人に、「天の国」を知って欲しいと願っておられます。「天の国」こそ、誰もが手に入れたい(天の国で永遠に生きたい)そう思う世界なんです。「ガチャ」の世界観の人、「私の人生は運が悪くてこんなもんだ」と諦めている人に、飛び込んできて欲しいと願っておられるのです。私自身の話ですが、私は、小さい頃からずっと真理が知りたいと思っていました。この世界の理不尽さに疑問を感じてもいました。中学生の時に聖書と出会いましたが、その時、本当に「神様と出会えた」と思えました。その時から、人生観や世界観が変わりました。大人になり、今度は、神学校に行ったのですが、その時、自分が思っていた以上の広さ、深さを感じることができました。今の私が心から待ち望んでいることは、神さまと顔と顔とを見合わせる時のことです。その時に、もっともっと美しく素晴らしい世界を見ることができると思っています。では、それはいつなのでしょうか・・・。それが世の終わりの時です。イエス様のお語りになる「世の終わり」は、「裁きの時」ですが、私にとっては神さまと会える時なのです。神さまはその時、網で集めた魚を、選り分けるとおっしゃいます。もちろん、信仰を持っている私たちは良い魚です。
◯この譬えの中にイエス様の姿も見ることができます
この譬えは、確かに、私たちにお示しになっている「天の国」のことです。ただ、高価な真珠の譬えを見ますと、ここにもう一つの深い意味が隠されているのがわかります。「真珠を探し求める商人」そして「それを手に入れるために全てを売り払って買い取った人」こそ、イエス様ご自身の姿でもあるんです。イザヤ書の43章の4節を共に見たいと思います。(旧1130頁)わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。ここに私たちに価値を見いだしてくださる神は、犠牲を払ってでも手に入れるとおっしゃってくださっています。実際に、イエス様は、神としての身分を捨て(つまり神の栄光を捨て)、人の姿(罪びとの姿)にまでなって下さり、私たちの所に来てくださいました。そして、苦しみを受けながら、私たちの罪を全て背負って、十字架で死んでくださったのです。それは、ご自身の命(血)という対価を支払ってくださったのです。私たちの汚れた衣をご自身はまとわれ、同時に、イエス様ご自身の真白の義の衣を私たちに着せてくださいました。私たちは、自分に価値を見いだせなくなることがありますが、神さまは、私の目にあなたは高価で尊いとおっしゃってくださるのです。その証として、全てを捨てて、私たちを買い取ってくださいました。
◯この世界は「ガチャ」なのか
私は初めに「ガチャ」の話をいたしました。神さまを信じない人は、人生は色々な「ガチャガチャ」を回すようなものだと捉えています。親も、家族も、自分の能力も、容姿も、体も、全て、偶然に与えられたものでしかない「ガチャ」のようだと思っています。運が悪ければ、ハズレを引いたと思っています。しかし、聖書は、それを否定します。この世界は、全て神さまのご計画の中で動いています。時に、神さまは、私たちが望まない境遇をお与えになることがあります。思い通りにならない試練を与えられることもあります。しかし、全ては、神さまとの深い計画と、愛のストーリーの中で起こっています。それは、神さまと出会い、神さまと深いつながりを持つようになり、そして、永遠の命へと繋がっていくものです。今日、私たちがこうして礼拝でみ言葉を聞いている事じたい、偶然ではなく、神さまのご計画の中で起こっていることなのです。
◯最後まで耐え忍ぶ
最後にペトロの手紙Ⅰ 1章の5節から9節まで共にお読みしたいと思います(428頁)。5節 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6節 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7節 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8節 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9節 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。私たちは神さまと出会いました。神さまは私たちに信仰を与え、喜びを与え、力を与えてくださいます。もちろん、私たちは守られています。時に、「ガチャ」のような“試練”はありますが、それらを通して私たちの信仰は本物になっていきます。そして、賞賛と誉れを頂くのです。私たちは、将来、神さまの栄光に包まれます。その時、私たちもまた、頑張ったことを誉めて頂けます。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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