宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年7月19日(日)聖霊降臨後第8主日礼拝

イザヤ書44章6節~8節
ローマの信徒への手紙8章12節~25節
マタイによる福音書13章24節~43節


「終わりの日」

説教者 江利口 功 牧師

◯初めに

お早うございます。

先週に続いて今週も「譬え」についてのお話になります。イエス様は弟子や人々に多くの「譬え」によって話をされました。その「譬え」を聴いた弟子や人々が「その譬えはどういう意味ですか?」と質問された時にイエス様は神の国についてお話されています。私は、今日の準備をするために何をどうお話すればよいのかと考えてしまったことがあります。イエス様の話された譬えを説明するのに、私がさらに喩えを使うのはいかがなものかと思ったのです。私に限らず、牧師は知っている知識を話している訳ではなく、その時々に必要な神さまの言葉を取り次いでいるのです。牧師は「私はこう解釈する」ではなく、神の言葉、聖書の言葉を正しく取り次ぐことに専念すべきと思っています。それで、イエス様の譬えを解きほぐすことにしてお話させていただくことにしました。

◯弱肉強食

「弱肉強食」という言葉があります。ライオンがシマウマを食べる。大きな魚が小さな魚を食べる。自然の世界では、強い者が弱い者を倒して生きて行く、そんな姿が見られます。でも、これは単に動物の世界だけではありません。私たちが暮らす世界にも、似たようなことがあります。例えば、学校では、力の強い子や怖い子が幅を利かせていて、弱い子が学校生活に辛さを感じることがあります。また、社会においても、力や権威を持つ人が、自分の思い通りに振る舞うことがあります。人が集まる所には、どうしても強い者と弱い者との力関係が生まれます。小さい頃からそのような世界を見て、育ち、どうしても解決しないのを知ると、段々と、「世の中そんなもんだ」とか「仕方がない」と思うようになります。でも、本当に、それが、この世界の本当の姿なのでしょうか?強い者が勝ち、弱い者が踏みつけられる。それだけなのでしょうか。イエス様は、「そうではない」と教えてくださっています。この世界には、確かに、悪や不正や理不尽なことで満ちています。しかし、神さまがそのように造られたのではなくて、この世界に、神さまの御心に反するものが入り込んだのです。ですから、終わりの日に、神さまが全てを裁き、新しい世界を私たちに与えてくださると約束してくださっています。それが今日の「毒麦の譬え」のお話です。

◯譬えの概要

今日の譬え話でイエス様は、「終わりの日」について教えておられます。これは、終わりの日に何が起こるのかを、神として、明らかにされているんです。ですので、必ず、このことが起こります。さて、イエス様は、次のように譬えをお話されました。マタイ13章24節~30節をお開きください(新25頁)。24節・・・「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」この譬えは、分かりやすいと思います。ある人が種を畑に蒔くんですね。「良い種を畑に蒔いた」というのが良いですよね。神さまは、良い種しか蒔かれません。すると、嫌ですね、敵がやって来て、人々が寝ている間に、密かに、毒麦を蒔いて行くんです。これは、収穫を前に、畑を荒らしていく悪い人達とは違います。これは、種を蒔いた人の敵です。嫌がらせですよね。この敵は、麦とよく似た毒麦の種を蒔いて行ったんです。さて、芽が出て、実りも出てきます。すると、気づくんですね。変なもの生えているって。「おかしいな、ご主人さんは良い種を蒔いたはずなのに・・・」って僕は考えます。僕が報告すると、主人は「敵の仕業だ」と言います。僕は「抜いておきましょうか」と提案しますが、主人は「いやだめだ」「抜く時に、良い麦まで一緒に抜くかも知れない」と言います。

◯なぜ、抜かないのか

抜きたくなるのが人間の心情、でも、そうするなと主人は言います。なぜなら、そこにリスクがあるからです。イエス様は、良い種を蒔くのは人の子(つまりイエス様)、そして、良い種とは御国の子(つまり私たちクリスチャン)のことだと言います。つまり、私たちはこの世界で、神の子として成長しています。その中に、悪い者の子らがいるというのです。そして、ここがポイントなのですが、私たちは、雑草であれば、作物が良く育つようにと抜きたくなります。また、組織やグループに悪い人がいると、いなければいいなって思います。罪を犯す人がいれば裁きたくなります。排除したくなるのが私たちです。ですので『では、行って抜き集めておきましょうか』、という僕の言葉は、私たちには納得しやすい言葉です。でも、主人は、「そうだな、丁寧に抜いてくれ」と言うのではなく「そのままにしておきなさい」と言います。ここが大事です。私たちは、そうそうと思いながら譬えを聞いて行きますが、ある時に、え?と思わされることがあるんです。(もちろん、毎回ではありません)放蕩息子の話では、弟が帰って来た時に、お父さんが怒らず、招き入れるんです。お兄さんは父親に対して怒りますが、それは、私たちも同じだと思います。また、善いサマリア人の話では、助けた人が何と仲が悪かったサマリア人だったんですよね。ここで、隣人とは誰かが教えられます。さらに、私たちが一番理解に苦しむのが、朝から働いた人にも、夕方に少ししか働かなかった人にも同じ賃金を払う気前の良い主人の話だと思います。ポイントは、イエス様は、それを聞いている人に、え?っと思わせるんです。でも、そこに神の国の真理が隠されているんです。そこを深めると見えてくるものがあるんです。私たちは弱肉強食の世界を好みません。私たちは、悪い者、合わない者は排除しようという考えになります。『では、行って抜き集めておきましょうか』、という言葉は、私たちの言葉です。でも、神さまは、そうはなさいません。時が来るまで(時が満ちるまで)は、そのままにしようとされます。そこに現されていることとは何でしょうか。イエス様が譬えの中で話しておられる、「良い麦も一緒に抜いてしまうかも知れない」というのは、①私たちが思う以上に、この世界は、良い人、悪い人が白黒はっきりしてないといことです。そして、もう一つ、②神さまが悪に無関心だからではなく、まだ収穫の時ではなく、良い麦を守りながら忍耐しておられるからです。さらにもう一つ、③その中で、私たちはどう生きるのかを改めて考えさせるためです。

◯神の望まれることとは

神さまが私たちに臨まれている事は何か・・・それは、この世界の中で、地の塩、世の光として歩みなさいということです。ただし、私たちは、神の子であるという選ばれた特権を忘れてはならないと思います。神さまは、弱肉強食になってしまった世界の中で、弱い人を助けるように、隣人を愛するように私たちをその場所に遣わされています。悪い者は、困らせようと、良い世界に悪いものを蒔きますが、良い人がいるとその世界は、その悪に打ち勝っていくのです。私たちは、神の子として、世に存在しています。地の塩、世の光として存在しているのです。ですので、世に染まらず、こんな世界だからと諦めず、また、自分もそれでいいやと思わず、最後まで、地の塩、世の光として歩むことを神さまは期待されています。

◯終わりの日

 さて、この譬えの最後になりますが、終わりの日についてお話したいと思います。今日の毒麦の譬えでは、主人は「僕の思いで抜かせない」んですよね。では誰が抜くかご存じですか?み使いたち、即ち天使たちが抜くんです。時を定めるのも、収穫に携わるのも、イエス様、また、み使いたちなんです。これは、本当に神の国の権威というか力強さを教えています。イエス様は、こうおっしゃいました。13章41節・42節「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」イエス様は、最後に、神が全てを裁く時が来るとおっしゃいます。その時、全てが報われ、私たちは、輝かしい栄光を頂くと約束してくださっています。そして、パウロは、この最後の日までの私たちの生き方を教えています。ローマの信徒への手紙8章13節からです。新約聖書の25頁をお開きください。13節・14節・・・肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。これは、霊に生きるように頑張りましょうと勧める言葉です。18節・・・現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。ここにも、将来に大きな希望があることを教えてくれています。22節・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。私たちは、このイエス様の譬えを聞いて、この世界を神さまの目で見ることができるようになりました。私たちは、この弱肉強食の世界が実はそうではないと分かります。私たちは、産みの苦しみを味わいながら、新しい世界が現れるのを楽しみにしているのです。今、色々な人が、世の終わりというか、人類の未来が終わってしまうということを予言しています。そして、その多くの人は、人間がこの世界を自らの手で壊すというような本当の終わりを未来に見ているかと思います。でも、私たちは、終わりの日とは、新しい輝かしい世界の始まりであると知っています。この世界は、今、虚無の世界にいるのではなくて、産みの苦しみの中にあります。これは、この理不尽な世に生きている私たちにとって、本当に希望だと思います。世の終わりは、新しい栄光の始まり、神が新しくしてくださる最高の世界の始まりなんです。それを私たちは、聖書を通して知っているんです。その私たちにイエス様は、光の子として歩みなさいとおっしゃいます。それが、毒麦を引き抜くことよりも、良い世界に変える方法なのです。それが、宣教にもなります。そして、大変な生き方になると思いますが、パウロは私たちにメッセージをくださっています。先ほどのパウロの手紙28節を見たいと思います。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。この世界は、未来にすごい喜びと栄光を控えています。私たちは、すでに、それを味わい始めています。私たちは、神の子です。霊の子です。それは、私が判断しているのではなくて、蒔いた人がそうだと言ってくださっているのです。私たちは、産みの苦しみの中で、地の塩、世の光として歩んでいます。その私たちに今日も霊的な食卓を準備してくださり、新しく愛に生きる者と変えてくださいます。この食卓に集っている私たちは、まぎれもなく、神の子、霊の子なのです。光の子なのです。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。