宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
7月12日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝

イザヤ書55章10節~13節節
ローマの信徒への手紙8章1節~14節
マタイによる福音書13章1節~9節
マタイによる福音書13章18節~23節


「耳のある者は聞きなさい」

説教者 江利口 功 牧師

 おはようございます。「耳のある者は聞きなさい」今日は、イエス様のこの言葉からお話したいと思います。イエス様は、神の国の真理を譬え話でお話されます。「迷子になった羊を探す羊飼い」に譬えたり、「瀕死ひんしの状態の人を助ける旅人」に譬えたり、「ぶどうの木」「パン粉」「小さい種」「真珠」「宝物」など日常で見かけるものを用いてイエス様は譬えを話されます。聞いた人は、その情景を思い浮かべ易かったと思います。確かに、イエス様の譬え話というのは、分かりやすいんです。でも、イエス様の譬え話を皆が理解したのかというとそうではありません。なぜなら、群衆には譬えを話し、その意味については、説明をなさらなかったからです。なぜ、そうなさったのでしょうか・・・。それは、イエス様のこの言葉「耳のある者は聞きなさい」にあります。イエス様の譬えは、その意味を深く探ろうとした時に輝くからです。今、料理の動画って多いんですよね。わたしも料理をする時によく参考にします。ちょっと調べれば、ほんと、ある程度のクオリティの料理を作る事ができます。昔、「キューピー三分クッキング」という番組がありましたが、不思議なことに、その番組を見ていると、作った気になるんですよね。で、美味しそうに食べている映像を見ると、何か、食べた気になるんです。そんなことありませんか?でも、作ってもいないし、食べてもいないんです。これが譬えとも共通しています。イエス様の譬え話は、聞いていると、分かった気になるんです。そして、そうだなって思えるんです。でも、それで終わってはだめですよね。そこにある隠された意味を追求しなければならない。もしくは、実践しなくてはならないんです。一か所、聖書を見たいと思います。今日の聖書箇所の次になります。マタイによる福音書13章34節、35節です。新約聖書26頁です。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」隠されたこととは、一言で言えば、神の国の奥義です。それは、旧約聖書の中に隠されていました。多くは、イスラエルの歴史の中に隠されていました。それらは、イエス様が来られるまで隠されていて、はっきりしていませんでした。そして、今、イエス様を通してその奥義が動き始めているんです。さて、今日は、本当に有名な譬え話で、教会学校でもよくお話に出てきます。そのイエス様の譬え話を見て行きたいと思います。では、今日の聖書箇所一緒に見て行きましょう。マタイによる福音書の13章です。24頁をお開きください。1、2節にこうあります。「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。」恐らく、イエス様は、誰かの家で人々にお話されていたと思われます。その後、イエス様は、家を出て、湖のほとりに行かれました。それは、休むためではなくて、さらに多くの人の話すためです。イエス様ラビのように教えるために、湖のほとりに座られたんです。すると、ガリラヤ湖の岸辺に人々がどんどん集まって来るのでした。イエス様は、そこで、舟に乗って、少し岸を離れます。そして、イエス様は、また腰を下され、教師として人々に教えられたのでした。

イエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったのには意味があります。それは、イエス様の周りには、沢山の人が集まってきましたが、それぞれに、集まって来た理由が違うからです。真剣にイエス様の話を聞こうとする人、癒して欲しいと願いに来た人、また、イエス様の奇跡やしるしを期待した人、また、イエス様を陥れようとする人がいました。本当に色々な人が集まって来ていました。でも、イエス様が求めておられたのは、イエス様を通して何が始まっているのかを知ることでした。そのために、イエス様は、現された神の国の奥義に耳を傾けるように、心を開いて、イエス様が語る言葉を聞くように促しておられるわけです。3節を見ますと、「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。」とあります。つまり、この時イエス様は、この種まきの譬えだけ話をされたのではなくて、神の国について、多くのお話をなさったのが分かります。そして、その沢山の譬えが語られたその中の一つが、この「種を蒔く人の譬え」でした。たぶん、この「種を蒔く人の譬え」は、最後にお話なさったのだと思います。でも、よく考えると、この種を蒔く人の譬えだけを聞くと、何が何に譬えられているのか、わかりませんよね。譬えというのは、説き明かされないとわかりません。ただ、イエス様は、群衆には譬えをお話になり、説き明かされなかったと書かれています。これは、どういうことかと言いますと、「それはどういう意味ですか?」と隠された真理(開始された神の国の力)を知ろうとする信仰を求めておられるからです。先週の月曜日、大阪吹田市にある万博記念公園に行ってきました。真ん中の子の運転で行きました。残念なことに雨でしたので、最初はショッピングモールで食事をしたりしていました。午後になって、「緑の中を散歩しようか・・・」となって、昔の万博会場の方へ行きました。ご存じの方も多いかと思いますが、ゲートを通ると、目の前に大きな“太陽の塔”が現れてきます。太陽の塔は、岡本太郎さんがデザインした有名な塔ですよね。で、その時、「塔の中を見学することができます」という看板が目に入ったんです。「せっかくだから、太陽の塔の中に入って見ようか」ということになりました。多分、晴れていたら、入ろうとしなかったと思います。多分、整備された緑の中を散歩していたと思います。でも、その日は小雨で、歩くにはちょっと大変で、さらに、人が少なかったので、当日券もあり、しかも、並ぶ必要もないというのが良かったのだと思います。ただ、見学するには料金がいるんですね。ちょっと高いなって感じました。「どうしようかな」と少し迷いましたが、せっかくだしと思い、三人で中に入ることにしました。中に入ってびっくりしました。私は、当時の万博を知らなかったので、太陽の塔って、単なる外から見るだけの“シンボル”だと思っていたんです。しかし、中に入って見ると、下から上に伸びる生命の樹のようなオブジェクトがあって、そこに、岡本太郎さんの思いが表現されていました。私は、塔の中は空洞で、当時のことを説明するパネルがあるくらいだと思っていました。でも、全然違いました。岡本太郎さんがデザインした生命の樹が下から上までそびえていたんですね。太陽の塔は、外も、そして、中も、一つのテーマを表現した、しっかりした芸術作品だったんです。ほんと感動して太陽の塔から出てきました。多分、中に入らなったら、私は今でも太陽の塔のことを、ただ外から見るだけの大きなオブジェクトだと思っていたと思います。でも、中に入ったからこそ、「そういうことか」という感動を得ることができました。万博会場を歩いていてもその気持ちがずっと残っていました。扉って面白いなって思います。その扉を開けるとそこに何かが広がって言います。扉が無くて、空間を分けることもできます。でも、それだと、価値を見いだそうとしなかったり、通り過ぎるだけになってしまうこともあります。でも、閉じられている空間、よし開けようと思わないといけない扉の場合、その場合、「中になにがあるのだろう」とか、「中にあるものを見たい、知りたい」という思いが必要になってきます。でも、そうして、開いた扉の向こうには、新しい世界が広がってきます。これまで知らなかったこと、分からなかった世界を知ることができます。イエス様の譬えは、それを聞いて分かったつもりで、終わるのではなく、その意味は何だ、神の国とは何だ・・・そういった、疑問を持って、深く真理を探り続けることが大切です。そうすると、私たちの内にある何かが変わるんです。逆に、聞いて終わるだけの場合は、真理や喜びが隠されたままとなってしまうのです。このイエス様の「種を蒔く人の譬え」は、普通に聞くと、“あなたはどのような者であるか(どのような土であるか)を吟味しなさい”と問いかけているように感じます。でも、それが中心ではありません。むしろ中心になるのは、種を蒔くイエス様の姿です。ここに開始された神の国の姿があります。イエス様は、種を蒔き続けます。それは、ご自身がお生まれになることによって、隠されていた奥義が芽吹こうとしているからです。この譬えは、確かに、信仰を持つように教えています。でも、イエス様が伝えようとされているのは、神さまのみ言葉の力です。イエス様を信じる人は豊かな実を結びます。その恩恵を豊かに受けることができます。でも、この世界には、それを阻むものが多いわけです。ですので、イエス様は、最後までイエス様についていくことを求めておられるわけです。「種を蒔く人の譬え」を見ますと、最初、①道端に落ちた種は、鳥が食べてしまいます。これは、み言葉を聞いても、聞くだけで終わっている人のことを言っています。扉を開けようとしない人ですよね。一番、もったいないんです。次に、②石だらけで土の少ないところに落ちた種ですが、これは、芽は出ますが、根が無いので、それで終わってしまう種だとおっしゃいます。イエス様は、艱難や迫害によって、つまり、試練に耐えられなくて、そこで終わってしまう人のことだとおっしゃいます。これは、今のわたし達にも当てはまることは多いと思います。イエス様は、素直になれと語るよりも、それを乗り越えてきなさいと励まされるのです。その次の③茨に落ちた種ですが、この世の富や誘惑がみ言葉を覆い隠してしまって、実らない人のことです。これは、悪魔の誘惑だと思います。これもまた、人から神さまを遠ざける強い力です。大体、私たちは、ここで実りを失ってしまいます。そのような私たちに、それを乗り越えてきなさい。そうしたら、100倍、60倍、30倍と豊かな 豊かな実を結ぶよと励ましてくださいます。イエス様は、私たちに自分の状態を吟味せよと強くおっしゃっているのではありません。むしろ、私たちの弱さをよくご存じなんです。だから、いつも、私たちを励まし、信仰を持っていても、「こんなもんか」と勝手に決めつけず、最後まで励むように勧めておられるわけです。なぜなら、神のみ言葉には、命があり、力があるからです。だからこそ、イエス様は、日々、そして、礼拝でのみ言葉によって、神の国の力を語り、それに信頼するように種を蒔き続けてくださっているのです。イエス様は譬えを用いて神の国を説明されました。イエス様の譬えは探ると、多くの場合、イエス様の姿が見えてきます。また、十字架が見えてきます。譬えの多くはイエス様と繋がっています。イエス様は多くを譬えでお話されました。その多くが、イエス様を通して始まった神の国のことです。そこには、本当の救いとは何かが語られています。イエス様の周りに集まって来た人の多くは、イエス様に現状を変えて欲しいと願っていました。でも、イエス様は、それ以上に素晴らしい福音。隠された真理。十字架でもたらされる本当の救いを伝えておられました。それが、本当に私の人生の実りとなるためには、その譬の扉を開き、真理を知る必要があります。「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、「私が考える実り」から「神が与える幸せ」に目を向けさせる招きの言葉です。今日の譬え話にある種を蒔く農夫こそイエス様です。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。