宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年7月5日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝

ゼカリア書9章9節~12節
ローマの信徒への手紙7章15節~25ǎ節
マタイによる福音書11章16節~19節
マタイによる福音書11章25節~30節


「重 荷」

説教者 江利口 功 牧師

おはようございます。

今日は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエス様の招きの言葉を聞きたいと思います。イエス様は、神の国についてお話をされるとき、聞いている人たちが分かるように、良く日常のことと結びつけてお話されました。イメージし易いように話されたんですね。また、後で思い出し易いようにお話されたのだと思います。イエス様は例えるのが上手はお方でした。たとえ神さまと私たちとの関係を羊と羊飼いとに喩えられました。私たちの人生の実りについては、種を蒔く農夫に喩えてお話されました。他にも弟子達に「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃったり、婚姻に喩えたり、ぶどう園に喩えたり、他にも太陽や雨に喩えたり、パンに喩えられたりされました。普段、人々が見る光景からお話されたんです。私たちは、難しいことや抽象的なことが何かに結び付けられると、なるほどって嬉しくなりません?悩というのは、何かと何かが結びついた時に「そうか」と喜びを感じるそうなんです。でも、その段階では、まだ「わかったつもり」になっているだけなので、そこから、もう一歩深く学ぶといいそうです。さて、今日の聖書箇所ですが、イエス様は、「重荷」から真理を解き明かしておられます。イエス様はこうおっしゃっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」このみ言葉は、クリスチャンの人であれば誰もが知っているみ言葉かと思います。教会の看板や案内チラシなど、良く引用されるみ言葉だと思います。どうして、良く引用されるのか・・・と考えると、やはり、私たちは、人生、重荷を感じて生きているからではないでしょうか。今朝、お電話がありまして、その方は以前に教会に来られた方でした。私の名前も覚えていてくださって、しばらく現状をお話くださいました。辛い状況が今でも続いているとのことでした。わたしは、今日のこのみ言葉こそ、その方へのイエス様の招きの言葉なんだなと思いながらお話しておりました。生きるって色々なことがありますよね。みんな何かしらの重荷を負っていると思います。未来への不安、仕事の責任、家の責任、介護、看護、子育て、色々なことに疲れてしまうのが私たちだと思います。もちろん、これは大人だけに限ったことではないと思います。子供達も人間関係で苦しみ、また、親の期待、社会の期待が重荷になっている時もあります。そのような私たちにイエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と招いてくださっているんですね。イエス様の言葉は、当時の人たちにとっては、ほんとに日常的によく見る光景でした。牛やロバが、軛くびきを負って働いている姿を人々はよく見かけました。“くびき”というのは、牛やロバなど家畜の首にかけて、鋤や荷車を引かせる木の道具のことです。牛がくびきを負って鋤を引いて土を耕している写真を見たこともあるかと思います。また、荷物を運ぶ時にも同じように首にひっかけて荷車を引かせていました。ですので、イエス様が「わたしの軛くびきを負いなさい」とおっしゃった時、人々には、“畑で働く牛”、荷を引くロバが目に浮かんだんですね。日本では「馬車馬のように働く」という言葉があります。それは、休む間もなく働く、もしくは働かされている状況のことを言いますよね。当時であっても、家の主人によっては、重たい荷物を引かせたり、大変な土地を耕せたりしていたんでしょうね。「あの牛さん(ロバさん)、大変だなぁ」って思わせる光景を見ていたのかも知れません。ですので、イエス様のこの話しは、荷を引く家畜と共に、後ろかもしくは横にいる主人(軛を負わせている人)も想像させました。「わたしのもとに来なさい」「休ませてあげよう」「わたしは柔和で謙遜な者だ」「わたしの軛を負いなさい」「わたしに学びなさい」「わたしの軛は負いやすい」「わたしの荷は軽い」・・・これらに共通するのは「わたし」です。イエス様がおっしゃるのは、わたしを主人にしなさいということでしょうね。「イエス様を主人とする」時、「イエス様が私の主人になった」時、私たちの人生は形を変えます。近年、ネット通販が主流になっています。買いに行かなくてもいい、探し周らなくてもいい、近所で買うより安い、さらに、注文したら明日届く、しかも、送料が無料・・・こうなってくると、忙しい今の時代、私たちはついついネットで物を買うようになります。でも、今、問題になって来ているのが、配達する人だそうです。沢山の荷物を車に乗せて、沢山の家を周っておられます。しかも、運んだ時にもらえる単価が安すいそうです。ドキュメンタリーなどを見ますと、セール期間の時などは、本当に大変そうでした。彼らを雇っている運送会社が悪いのか、通販の会社が問題なのか、はたまた、便利だから安いからといって、ポチポチおす私たちに問題があるのか・・・それぞれに問題があるかと思いますが、これは、わたしたちの世界を覆っている「世の罪が問題」なのだと思います。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、みんなわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招かれます。では、他の主人とは違うイエス様はどのようなことをしてくださるのでしょうか?

イエス様は、まず、私たちが生まれた時から引きずっている重荷を取り

除いてくださいました。それは、“死”という定めです。イエス様は、世の罪を取り除くために来られた神の小羊です。イエス様は、十字架で私たちの罪を全て背負って死んでくださいました。イエス様こそ、重い 重い罪を背負って、苦しみを受け、十字架で死んでくださったのです。イエス様が私たちの代わりに罪を背負って死んでくださったので、私たちは、もはや、“死”は支配していません。私たちは、「死」から解き放たれました。一度は死にますが、イエス様と同じ様に復活します。私たちはそのことを意識しているでしょうか。

そして、イエス様は、私たちと一緒に「わたしの人生の軛」を負って歩

んでくださいます。土を耕す時は、多くの場合、二頭を並べてその二頭と繋ぐ形で、くびきを負わせます。そうすることで、強く引くことができるからです。でも、もう一つありまして、まっすぐ進むのにも役立つんですね。イエス様は「わたしに学びなさい」とおっしゃっていますが、これは、一緒に歩みましょうという意味です。もしかしたら、荷は変わらないかも知れない。でも、イエス様が一緒に引いてくださるなら、私たちの荷は、これまでの荷とは変わってくるんです。私も一緒に歩きましょう。私と学びましょうと言っておられるのです。私たちは、イエス様を信じて洗礼を受けると、私たちがこれまで引いていた死の定めという重い 重い軛から解放されます。この喜びが人生に入り込んでくると人生の意味が大きく変わってきます。そして、何より、主人であるイエス様が、一緒に引いてくださるのです。

さらに、クリスチャンとして歩む時、鋤を引いて耕した大地は豊かな実

りをもたらします。また、荷物を引くロバに喩えるならば、同じ荷物であっても、それは、多くの人に良いものを運ぶ愛の荷に変わります。私たちの人生の意味を、キリストと共に歩む人生に切り替えると、運んでいる荷物の意味が変わるのです。イエス様は「わたしのもとに来なさい」とおっしゃっています。もちろん、厳しい主人ではありません。「柔和で謙遜」なお方です。そして、「重荷を軽く」し、さらに「休ませてあげよう」とおっしゃっています。神さまが一緒にいてくださる時、それは、どんな時でも安息の時です。神さまのそばにしかない安息、神さましか与えることができない平安、これらすべてが、信仰によって歩む時に、与えられます大切なのは、信じたらいいのではなくて、イエス様の所に行くことを意識することです。最後に、同じイエス様の姿を表した聖句を読みたいと思います。詩編23編です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」ここにも、イエス様の姿が描かれています。今を生きる私たちは、大変です。でも、イエス様を主人とし、イエス様と一緒に人生を歩む時、人生は違ったものとなります。そして、いつも私たちのことを気遣ってくださいます。その羊飼いは、食卓を整え、杯を溢れさせてくださるとあります。この後聖餐式がありますがまさにその時です。私たちは世の旅路は、一人ではありません、いつも横にイエス様がいらっしゃいます。

命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。私たちは、重い荷を引いているだけではありません。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。